KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

人になれ奉仕せよ

人になれ奉仕せよ

この標語は僕が通っていた中学高校の学校の標語です。クリスチャンの学校だったので堅苦しい感じで僕はあまり好きな校風ではなかったんですが、この標語だけは「いいね!」です。

というのも、ここ数年親しい仲間と新たな活動を始めようという流れになってきているのですけれど、どんな活動かというと、人助け運動なんです。

この惑星は本当に不公平な社会です。何が不公平かというと、何も給料が高いとか安いとかいうことじゃなくて、人が持っている才能というか、その人の光り輝くものをお互いに認めて伸ばしていこう、という構造になってない。

うまくいかなかったら、なんて言われるか?努力が足りない!それはよしとしても、二言めには、どのジャンルでも「そんなことじゃ厳しい競争に勝ち残れないゾ!」と。

競争することが目的ではない。自分のやりたいことをやりたいだけです。多数の中を勝ち抜いてトップになった人は皆から褒め称えられ、羨望の眼差しで見られる。

競争に勝利した人は敗者を見下げています。
すべての人がそうではないと思いますが、他に打ち勝って自分が優位に立った時の優越感は、人間のDNA に刻印されているようですね。

これは、勝てば官軍のような、弱肉強食のジャングル論理です。もう原始人の時代は終わってるんです。

なるほど確かに。
目標設定により結果として能力が高まればいいのでは?ということも一部頷けます。でもトップになれなかった人は?

人に与えることができないと、霊的進歩は進まないと思います。食べ物を確保するために周囲と争って勝ち取る。これは原始時代の名残でしょうね。

そのため、僕と仲間たちは、過去に於いても現在でも競争で勝てなくて、結果的にいま切実に困ってる人を助け、そしてその助けられた人も別の人を助けていく。そして助け連鎖を拡げていく。そんな計画を立ててます。弱者救済です。

国の福祉政策も機能してますが、まだまだ細かいところまでは手が回らないようです。

また人類全体の霊的レベルを上げるためには、人の心を変化させていかなくてはなりません。本来その部分は宗教の役目なのですが、悲しいことにほとんどの宗教が勢力拡大の努力ばっかりです。 嗚呼!

KOSEI

その2 食中毒

その2 食中毒

自分の人生で重症の食中毒は二回。いずれもアパート生活中での出来事です。

その2の1 サバの味噌煮
あれは真夏日、僕はサバの味噌煮缶詰を買ってきました。若い頃はお金はあまりないものです。僕も不定期バイトはしていましたが、裕福からはほど遠く日々の生活費で精一杯といった有り様で、冷蔵庫すら持ってませんでした。

サバの味噌煮缶詰は、手軽に食べられるし安価なので、よく食べてました。白米を鍋で炊きサバの味噌煮缶詰を開けて、朝半分夜半分といった節約生活でした。

事件が起きた日も、朝食にサバ味噌煮を半分食べて、残りはそこらに置いておきました。たしか窓辺に放置したと思います。

ところがその日友人から連絡が入り、「どうだ、オレんち来ないか?メシおごるよ」とのこと。こんなビッグチャンス、逃す手はない!ということで勇んで出かけました。友人宅までの電車賃を考慮しても充分メリットがあるオファーです!気の合う友人だったので4日ほど彼の家に滞在して自分の異次元アパートへ戻ってきました。

さて問題はその日の夕飯、ふと窓辺をみると缶を開けて半分残ったサバ味噌煮缶がある。お、こりゃ好都合とばかりムシャムシャ食べ始めた。しかし4日前に開けて真夏日の最中冷蔵庫にも入れず放置しておいたサバ缶詰です。腐ってない方がおかしい。

食べる時は匂いましたが、そうなると益々猛々しい気持ちになってくるのが僕の性格です。食い物に後ろは見せない❗とばかり、匂いは無視して食べ始めました。

話はズレますが、後日僕は国際貿易会社を立ち上げて中国東北地方に二年間滞在していました。その時はいろんなもの食べましたね!

ラクダの手
カエル
カイコ
サソリ
犬肉
鶏の首から上がそのまま入っている鶏煮込み

その場その場で様々な変わった料理が出てくるので、全部は覚えていません。ちなみに上に書いたものはすべて強壮剤として用います。効果は抜群です。

閑話休題

結局サバ味噌煮では強力な食中毒を起こしました。強烈な嘔吐、下痢、腹痛、頭痛。でも這うようにして薬局へ行き、一番安い市販薬を買って治めました。後で誰かから聞いたのですが、腐ったサバ缶詰などは猛毒だそうです。
人生二回目の「急死に一生」です。

その2の2 虫
サバ缶詰事件からだいぶ時間が経ってからです。また、違うアパートに移っていたのですが、アパート生活ということと食中毒というキーワードで、ここにまとめます。

が、経済状況は相変わらずで、なんとか食費を切り詰めようと研鑽の日々でした。
その日は、日課の散歩をしていましたが、たまたま近くの公園を歩いていると、ドングリの実が路上に落ちているではありませんか!木の実なら食える!ただメシが毎日歩く道に転がっているとは!なんという灯台もと暗し。

早速たくさん拾っていき、部屋にかえりパクパク食べ始めたものの、硬いし不味いしでいいことなし。そのうちひとつのドングリを開けてみると中には虫が巣食っていて、虫本体も動いているではないか。その挑発的な虫の態度に、食えるものは食い尽くすという僕の本能が目覚めて、虫をパクっと食べてしまいました。実に苦かったが、勝利感はありました。しかし虫は死して反撃してきたのです。

サバ缶詰の食中毒と大差ないため、子細は省略しますが、虫食中毒の方は腹痛が激しかったです。しかしやはり市販薬で完治!

その日はカノジョ(今の奥さん)とデートの日だったのですが、喫茶店に入ったものの僕は腹を押さえてうめいているだけで、結局そのまま帰ってもらいました。

食べ物は口に入れた時、ただならぬ味がしたら即吐き出しましょう。

KOSEI

四畳半アパート異次元奮闘記その1

このブログもだいぶ更新していないので気になっていたのですが、じつは昨年末は仕事の都合でイギリスロンドンへ2ヶ月ほど行っていました。その時期追い討ちをかけるように我がPCの故障という災厄に同時に見舞われ、ブログ更新への道がグッと遠のいてしまいました。

とは言うものの1ヶ月ほど前に「経歴」としていくつかに分割して記事を書きました。先月あたりから時間ができたので、今日は久々にブログを更新します。今日は「経歴」の延長線にある流れで僕の20代の頃に体験した、ちょっと風変わりな出来事を書きます。

題して「四畳半アパート異次元奮闘記」です。

今日はその1で エイリアン遭遇
その頃僕は東京都内でアパート生活を送っていました。そのアパートで起きた出来事です。
ある朝起きたら布団の中に異様な物体(エイリアン)がいた。というだけの話です。ただ異常な出来事なので現実としてなかなか受け止めにくい、というのが本当のところです。

まずはエイリアンの形状です。
直径15センチぐらいの黒い球体。
体表からは長さ15~20くらいの無数の触手が生えていて、にょろにょろと動いている。
僕の脇の下に出現しました。

あるいは幻覚の類だったのかも知れないです。

人間は訓練により現実として知覚できないものでも見ることができる、ということを知ったのは、その後僕が密教その他の神秘行の世界に入ってからであって、その頃は何も知らなかったので、とにかくショックでした。

のみならず、ただ単にSF映画のスクリーン画面としてエイリアンがいたのではなく、そのにょろにょろ動く触手が僕の身体と触れ合って、その触手の感触もあったのです!これは気色悪いです!

人間の下意識は身体に危険が迫った場合、本能的に自分の身体を守ります。といっても寝床から飛び上がって部屋の外へ逃げただけですが。

部屋のドアを閉めて約10分間は部屋に入って行くことができなかったです。10分後恐る恐るドアを開けて寝床を見た時には、その真っくろ黒助は影も形も見当たりませんでした。

僕はこのアパートでは二回ほどひどい目に会いました。続きは次のブログで。

KOSEI

経歴その4

経歴その4

修行編

密教

僕は25歳の時に真言密教の教えを授かりました。自分の持っている悪条件を自覚し、その悪条件から自由になる、ということがここでの修行の骨子です。詳細はこの「KOSEIのブログ」で触れています。

仙道修行

これも、このブログの中で書いたと思います。実際に仙道修行の道を歩んできた人は少ないと思います。僕は高藤聡一郎という人から色々と仙道のエキスを教わりました。とても気さくな方ですが、この人の持っているモノは非常に興味深いものばかりでした。高藤先生は台湾の仙人からさまざまな術を学んだようです。

北京中医薬大学(気功法)

しかし病高じて、じゃないですけど、そのあと僕は北京中医薬大学の社会人部で中国医学中医基礎理論を学習しました。臨床経験はほとんどないです。なぜ中国医学まで勉強したのか?

そもそも僕は人間が超人になる為の方法は中国の仙道にある、と思い師匠を探し、そこで高藤聡一郎という人に縁があり、この人の事務所にかなりお邪魔をしていて、気功法を教わり、さまざまなことを吸収したのです。また指導員としても都内のカルチャースクールで教えた経験もあります。

とはいえ、やはり正式な中国医学を学びたいという願望から、基礎から学びたいという思いから、北京中医薬大学へ入学しました。しかしこれが中国ビジネスへと繋がっていくとは!

それはまた後の話。

上記の高藤先生からも気功法を習いましたが、「北京中医薬大学 ( 旧名は忘れました ) 」では、ある北京出身の気功法の先生から気功法を教わりました。その先生が北京に道場を建立したのでお祝いに駆けつけたり、その後も親善と交流のために、結構北京には頻繁に行きました。考えてみたらこの北京行きが僕の記念すべき中国渡航第一歩でした。なおこの前後を問わず中国での体験談は、このブログに書いてありますから、興味があれば読んで下さい。

神智学協会

中国の神秘学の根本にあるのは、陰陽五行と易経です。素晴らしい価値を持っていると僕は思います。しかし中国の方法論では、それを自分のものにして使いこなすためには、多大な時間がかかると思います。そこで還元主義的な欧米に僕は助けを求めました。その第一歩が神智学協会日本ロッジです。この神智学という思想体系は、おそろしく気宇壮大なもので、なおかつ西洋人が始めたものの東洋 インドの要素を加味した思想なので僕は興味を惹かれました。そこで早速入会して学習の日々に。

バラ十字会

神智学を勉強してたらいつのまにか、ここにたどり着きました。バラ十字哲学は、あらゆる西洋神秘学の根底に横たわっているものです。未だに僕は学習途中なのですが、基礎の基礎をしっかり教わることができます。じつはこの団体以前は秘密結社でした。理由としては為政者からのプレッシャー、深淵な哲理を守るためといったところでしょうか。

主だった思想面から捉えた修行遍歴は大体こんな感じです。

次回は武道の修行遍歴を!

KOSEI

経歴その3

経歴パート3

さて、あの大怪我から一年ほどですっかり回復した。右脚が左脚よりも3cm短いことをのぞけば、私の外貌は健常者と何の変わりもない。最初は杖をついて歩き、その後は多少びっこを引いて歩いていたが、その内まったくわからなくなった。

その後大学というところへもタイミングを逃した感じがして進学はしなかった。

そのような中途半端な時に、ひょんな縁で、前衛芸術家が集まる団体に参加してしまった。

団体名は、燔儀大踏鑑。主宰は土方巽という人だが、この人は知る人ぞ知るという日本の前衛芸術の走りのような人で、元々は舞踊の人。私はその稽古場で毎晩バレーのバーレッスンや回転の訓練に励んだ。

しかし3カ月のギプス生活により崩壊寸前の私の膝はバーレッスンを受け入れるにはかなり厳しかった。バーレッスンは上半身は背筋を伸ばすが腰を落としていく。これは私が後になって経験する空手の訓練とまったく同じだ。歌舞伎役者も分銅を腰からぶら下げてアタマの位置を上下させずに移動する訓練をするという。能役者もまた同様な訓練をするらしい。

私は土方先生の元で信じられないくらい多くのことを学んだ。あのような人はもう現れないのではないか?私は内弟子として住み込みで習った。いろんな人が顔を出していた。文学者が多く、三島由紀夫谷川俊太郎状況劇場唐十郎、その他ありとあらゆる、新しい道を探す冒険家が集う梁山泊だった。

舞踏というものは魔術に近い。澁澤龍彦氏(黒魔術の手帳著者)も交友があった人のひとり。私は用事を言いつけられて澁澤龍彦氏の北鎌倉の自宅まで行ったことがある。天使論の笠井叡も土方先生と交友のあったひとりでした。

居場所を見つけた感があったが、私はもっと魔術を本格的に学びたかった。

何かに不足感があり、不足は充足を求めた。25歳の時に密教の門をくぐった。真言宗三宝院流憲人方 ( しんごんしゅうさんぽういんりゅうけんじんかた )。其処での修行は因縁解脱というもので、これまた私を形成することに大きな効果を発揮した。

しかしこの団体は、真言宗とは言っても、当初は宗教色よりも、アメリカのニューソートのような感じの団体で私はそこに魅力を感じて参加したが、最終的に宗教に向かってしまったので私はその団体を離れた。ひとつの通過点だったのだろうが、色々と勉強して自分のものにしていった。その他にもこの時期には様々なことを吸収した。それらの内最も私に大きな影響を及ぼしたのは、以下の二つだ。

1 > アストロロジー

石川源晃: この人は大戦時には空軍の無線技師。かなり緻密なアストロロジー。私は何年間かこの人のところで学んだ。プロの占星術師が学びに来ていた。なかには日本で西洋の魔術を紹介したような人も多く学んでいた(例えば大沼忠弘氏、ルネバンダール渡辺氏 etc....)。しかし石川先生も故人となり、時間が経つことに虚しさを感じる。

私はその他にも何人かの占星術師に師事したが石川先生ほどの人は皆無だと思う。

2 > 中国拳法

その後中国拳法を佐藤金兵衞先生から学んだ。やはりかなり腰を落とす訓練。この先生は内臓がかなり頑丈だったようで、甥っ子さんから聞いたところによると、毎晩日本酒を二升呑んでたという。しかし何年か会わないでいて久々に訪ねたときは歩くのもやっとのような状態で.....。超人かと思ったが違った。

私はいつの間にか自分を強くするということが目的になってきた。そこで中国拳法には飽き足らず、極真空手へ入門。

私の修行遍歴が始まった。以下経歴4へ続きます。次回からは運命学、武道、神秘修行、という具合に分類して書いていきます。

では。

経歴その2

人生の区切りをどこに置くかというと私の場合は19歳だ。

あの歳で定職にもつかず、アルバイトを転々、今で言うフリーター。いまは閉館となった新宿コマ劇場というのが新宿にあって、真冬の1月29日コマ劇場の正面玄関の飾り付けを替えるバイトをしていた。

十尺(約3m)の脚立を二つ並べ立てその最上段に立ちAからBの脚立へ移動しようとしたその時、「飛べ!飛べるぞ!」という声無き声に導かれ私の足は空を飛んでいた。

しかし飛べずに落下。B脚立のステップのところに右大腿部をぶつけて複雑骨折。救急車で新宿百人町の春山外科へ搬送された。最初は牽引でしばらく引っ張ってから、という予定だったらしいが、結構早めにオペ。複雑骨折した骨片をひとつずつ拾っていかなければいけないので、オペ時間の見積りは4.5時間。しかしロクな準備もしないで始めたせいか、2時間目で血圧急降下、心肺停止。ドクターは慌てまくり患部を針金で固定して応急措置して、蘇生処置!

なんとか生き返り、全身麻酔から目覚めたらいろんな人間が私を取り囲んでいる。何ごと?などと考えている余裕は無い。吐き気、ものすごい頭痛、患部の激痛。身体中にはコードがブチ刺さっている。鉄腕アトムにエネルギーが注入されて動き出すといったような幻覚。ちょっと気持ちが良かった。

1週間は毎日こんな状態で。何と言ってもいくら鎮痛剤をブチ込んでもまったく効かない。オペ途中でやめたもんで寝返りも打てない。眠れない。このあとも、体力が回復するまでは現状維持で患部にギプスを巻いて寝返りうたずに3カ月。

さてそろそろ、体力も回復してきたので二回目のオペを. . . と言ってレントゲンを撮ったら何と応急措置でラフな状態のはずの大腿骨が正常な形に復活している!という。ホントかなとは思ったが、まあまた全身麻酔せずに済んだということて、まずはメデタシだ。

じゃあそのままで一気に回復へ!

ギプスを外してリハビリ。3カ月間起き上がらずにいて起き上がった時のことを今でも覚えている。上半身を起こしただけでめまい。起き上がれない?少しずつ起き上がり、2日くらいかけてようやく正常な姿に。

さらに院内で数ヶ月過ごして約一年間を経て退院。自宅療養となる。

このまま社会復帰していれば良かったが、そうは行かなかった。

退院直前に大腿骨の内部に固定目的で打ち込んであった銀の棒をもう要らんとばかりに抜いてしまい針金も外した。

ところが針金が巻いてあった部分のみ骨が充分に成長せずに、脆弱だったため、自宅療養中に何と再骨折!

川崎労災病院に再入院。約3カ月の入院。

ここで私の怪我遍歴を披露します。

1 ) 中学時代に自転車乗って走行中横断歩道を自転車に乗って横断していた。そこへ大型ダンプカーが走ってきた。そのままだとぶつかる。しかし私は逃げなかった。正に正面衝突。私の身体は180度回転し、頭が下へ。ダンプカーのヘッドライトと私の頭蓋骨との一騎打ち。約5分間気絶した。出血し生温かい血液が肩を伝わり流れて来た。しかしダンプカーのヘッドライトも割れた!私は一矢報いたのだ!負けなかった!しかし1ヵ月の入院。

2) ガソリンスタンドでも災厄に遭った。私はガソリンスタンドでバイトをしていたがダンプカーの荷台を上げるためのポンプがあるので、そのポンプのグリスをチェックしてくれ、と先輩に言われアタマを突っ込んでチェックしていたがその先輩が誤って荷台を下ろしてしまい、大惨事に!私の上歯と下歯は食い違い頬には亀裂が。私のアタマはダンプカーの荷台に挟まれてしまったのだ!

私の頭部は内出血で晴れ上がり、全治3カ月。

内臓は丈夫だが怪我が多い。

じつは、この続きはまだあります。

KOSEI

経歴その1

そもそも、このブログの作者はどんな人間なんだ、という自己紹介みたいなものは、先ず最初に書くべきでしたね。

そこで、遅ればせながら僕の経歴を何回かに分けて書いていきます。

出生

僕が生まれたのは1950年03月29日午後6時25分で、出生時の体重は平均よりも重かったようです。

出生時は桜が満開の時でしたから、桜の花が舞い散る中を母親は僕をダッコしてタクシーで家に帰ってきました。僕は車中から窓越しに、桜の花が舞い散る光景を見ていたわけですが、なんと僕は今でもその光景を覚えているんです!

小さな頃から夢見る少年でした。昔のことなので部屋の片側にはふすまがありました。僕はそのふすまの絵柄をじっと見つめているのが大好きだったのです。なぜならじっと見つめているうちに、その絵柄がニュワ〜っと動き出すのです!

おまけに何処からともなく、歌声のような音楽のような音声が流れてきます。

おかげで、僕は普通の子供が遊ぶようなオモチャには一切興味を示しませんでした。自分の内部に入って遊ぶ方がずっと面白かったのです。だから一人でいることが多かったです。

小学生時代:

人の笑いを取るのには天才的手腕で、クラスでは常に人気ナンバーワン。得意科目は国語、苦手科目は算数、理科、社会、体育。

小学生向けのSFを読み耽りました。

しかし、依然としてほかの子供たちと仲良く遊ぶということは出来ませんでした。

そして体育は大嫌いでした。筋肉質の教師がやたらに競争意識を煽って、熱血な授業を展開しようと躍起です。ところが僕は他人と競争してどうする?というタイプの人間だったので、まったく体育の教師とはソリが合わないというか。したがって運動会などというものはこの世から消えて無くなれ!と毎日祈ってました。

僕は幼心にも思いました。「そんなに相手に勝ちたいなら夜になってこっそり相手の家に行き相手の家のドアを開かないようにしてから、家に火をつければいいじゃないか!」何ごとも実利主義でした。運動会などで勝っても意味がない。

夢: 社会を裏で操る存在になりたい、という願望。

中学時代:

国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフヒトラーが著した「吾が闘争」に傾倒し、かなり感動しました。反ユダヤ主義にも興味を持ってました。

その後東京数寄屋橋交差点で反ユダヤ運動を繰り広げていた三島さんという活動家と知り合い、仲良くなり、三島さんのマンションを訪問することもしばしば。

ある時三島さんから「君はあの太陽を1分間直視出来るか?」と言われた。そこで私は裸眼でカッと目を見開き見事に真っ赤な太陽を1分間直視した。すると三島さんは驚き、「君は紛れもなく神の子だ!」といい私の家に行って親と話したいと言い出した。

後日三島さんは本当に私の家に来て母親に、私が生まれた時の様子を細かく尋ねていた。

同時に私は右翼結社愛国党の親派となり機関紙「愛国新聞」の購読開始した。

愛国党の若き党員山口二矢が当時の社会党書記長浅沼稲次郎を刺殺した事件は僕にも衝撃を与えました。僕は今も山口二矢の獄中手記を持っています。彼の行動をまったく肯定はしないが、何事かを成さんとする時、中途半端はよくないと思う。

一方学校はとりあえず席があるだけで、あんな下らない授業なぞは眼中になく、テスト用紙は常に白紙か、「ばかやろ」と書いて提出しました。中学1年の時家出。万引きと恐喝をして補導さる。挙げ句の果て私は精神病者に仕立て上げられそうになった。どういうことかというと、

自分の部屋にいたらある日突然白衣を着た奴らが3〜4人現れた。私に対してしきりに入院を勧めた。もちろん私の答えは、拒否!

それを母親が依頼したということがわかってダブルショック!私は自分の部屋に火をつけた。

当時の友達は一般的な学生から見れば、不良 (懐かしい表現)だけど、みんな主義主張を持ってた。なにしろ国鉄逗子駅前の交番で我が家のことを尋ねると、すぐわかったくらいだ。

気の合う友達とロックバンドを結成した。中学の時はビートルズ。バンド組んでた時は、リードギターの友人がジミーヘンドリクスに狂ってたので、レパートリーはクリームの曲ばかりだった。渋谷のダンスホール(これも今や死語)に出演してた。なぜか顔にメイクをして、笑笑。

夢: 大暴力団結成 長くなりそうなので続く。

KOSEI