KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

経歴その4

経歴その4

修行編

密教

僕は25歳の時に真言密教の教えを授かりました。自分の持っている悪条件を自覚し、その悪条件から自由になる、ということがここでの修行の骨子です。詳細はこの「KOSEIのブログ」で触れています。

仙道修行

これも、このブログの中で書いたと思います。実際に仙道修行の道を歩んできた人は少ないと思います。僕は高藤聡一郎という人から色々と仙道のエキスを教わりました。とても気さくな方ですが、この人の持っているモノは非常に興味深いものばかりでした。高藤先生は台湾の仙人からさまざまな術を学んだようです。

北京中医薬大学(気功法)

しかし病高じて、じゃないですけど、そのあと僕は北京中医薬大学の社会人部で中国医学中医基礎理論を学習しました。臨床経験はほとんどないです。なぜ中国医学まで勉強したのか?

そもそも僕は人間が超人になる為の方法は中国の仙道にある、と思い師匠を探し、そこで高藤聡一郎という人に縁があり、この人の事務所にかなりお邪魔をしていて、気功法を教わり、さまざまなことを吸収したのです。また指導員としても都内のカルチャースクールで教えた経験もあります。

とはいえ、やはり正式な中国医学を学びたいという願望から、基礎から学びたいという思いから、北京中医薬大学へ入学しました。しかしこれが中国ビジネスへと繋がっていくとは!

それはまた後の話。

上記の高藤先生からも気功法を習いましたが、「北京中医薬大学 ( 旧名は忘れました ) 」では、ある北京出身の気功法の先生から気功法を教わりました。その先生が北京に道場を建立したのでお祝いに駆けつけたり、その後も親善と交流のために、結構北京には頻繁に行きました。考えてみたらこの北京行きが僕の記念すべき中国渡航第一歩でした。なおこの前後を問わず中国での体験談は、このブログに書いてありますから、興味があれば読んで下さい。

神智学協会

中国の神秘学の根本にあるのは、陰陽五行と易経です。素晴らしい価値を持っていると僕は思います。しかし中国の方法論では、それを自分のものにして使いこなすためには、多大な時間がかかると思います。そこで還元主義的な欧米に僕は助けを求めました。その第一歩が神智学協会日本ロッジです。この神智学という思想体系は、おそろしく気宇壮大なもので、なおかつ西洋人が始めたものの東洋 インドの要素を加味した思想なので僕は興味を惹かれました。そこで早速入会して学習の日々に。

バラ十字会

神智学を勉強してたらいつのまにか、ここにたどり着きました。バラ十字哲学は、あらゆる西洋神秘学の根底に横たわっているものです。未だに僕は学習途中なのですが、基礎の基礎をしっかり教わることができます。じつはこの団体以前は秘密結社でした。理由としては為政者からのプレッシャー、深淵な哲理を守るためといったところでしょうか。

主だった思想面から捉えた修行遍歴は大体こんな感じです。

次回は武道の修行遍歴を!

KOSEI

経歴その3

経歴パート3

さて、あの大怪我から一年ほどですっかり回復した。右脚が左脚よりも3cm短いことをのぞけば、私の外貌は健常者と何の変わりもない。最初は杖をついて歩き、その後は多少びっこを引いて歩いていたが、その内まったくわからなくなった。

その後大学というところへもタイミングを逃した感じがして進学はしなかった。

そのような中途半端な時に、ひょんな縁で、前衛芸術家が集まる団体に参加してしまった。

団体名は、燔儀大踏鑑。主宰は土方巽という人だが、この人は知る人ぞ知るという日本の前衛芸術の走りのような人で、元々は舞踊の人。私はその稽古場で毎晩バレーのバーレッスンや回転の訓練に励んだ。

しかし3カ月のギプス生活により崩壊寸前の私の膝はバーレッスンを受け入れるにはかなり厳しかった。バーレッスンは上半身は背筋を伸ばすが腰を落としていく。これは私が後になって経験する空手の訓練とまったく同じだ。歌舞伎役者も分銅を腰からぶら下げてアタマの位置を上下させずに移動する訓練をするという。能役者もまた同様な訓練をするらしい。

私は土方先生の元で信じられないくらい多くのことを学んだ。あのような人はもう現れないのではないか?私は内弟子として住み込みで習った。いろんな人が顔を出していた。文学者が多く、三島由紀夫谷川俊太郎状況劇場唐十郎、その他ありとあらゆる、新しい道を探す冒険家が集う梁山泊だった。

舞踏というものは魔術に近い。澁澤龍彦氏(黒魔術の手帳著者)も交友があった人のひとり。私は用事を言いつけられて澁澤龍彦氏の北鎌倉の自宅まで行ったことがある。天使論の笠井叡も土方先生と交友のあったひとりでした。

居場所を見つけた感があったが、私はもっと魔術を本格的に学びたかった。

何かに不足感があり、不足は充足を求めた。25歳の時に密教の門をくぐった。真言宗三宝院流憲人方 ( しんごんしゅうさんぽういんりゅうけんじんかた )。其処での修行は因縁解脱というもので、これまた私を形成することに大きな効果を発揮した。

しかしこの団体は、真言宗とは言っても、当初は宗教色よりも、アメリカのニューソートのような感じの団体で私はそこに魅力を感じて参加したが、最終的に宗教に向かってしまったので私はその団体を離れた。ひとつの通過点だったのだろうが、色々と勉強して自分のものにしていった。その他にもこの時期には様々なことを吸収した。それらの内最も私に大きな影響を及ぼしたのは、以下の二つだ。

1 > アストロロジー

石川源晃: この人は大戦時には空軍の無線技師。かなり緻密なアストロロジー。私は何年間かこの人のところで学んだ。プロの占星術師が学びに来ていた。なかには日本で西洋の魔術を紹介したような人も多く学んでいた(例えば大沼忠弘氏、ルネバンダール渡辺氏 etc....)。しかし石川先生も故人となり、時間が経つことに虚しさを感じる。

私はその他にも何人かの占星術師に師事したが石川先生ほどの人は皆無だと思う。

2 > 中国拳法

その後中国拳法を佐藤金兵衞先生から学んだ。やはりかなり腰を落とす訓練。この先生は内臓がかなり頑丈だったようで、甥っ子さんから聞いたところによると、毎晩日本酒を二升呑んでたという。しかし何年か会わないでいて久々に訪ねたときは歩くのもやっとのような状態で.....。超人かと思ったが違った。

私はいつの間にか自分を強くするということが目的になってきた。そこで中国拳法には飽き足らず、極真空手へ入門。

私の修行遍歴が始まった。以下経歴4へ続きます。次回からは運命学、武道、神秘修行、という具合に分類して書いていきます。

では。

経歴その2

人生の区切りをどこに置くかというと私の場合は19歳だ。

あの歳で定職にもつかず、アルバイトを転々、今で言うフリーター。いまは閉館となった新宿コマ劇場というのが新宿にあって、真冬の1月29日コマ劇場の正面玄関の飾り付けを替えるバイトをしていた。

十尺(約3m)の脚立を二つ並べ立てその最上段に立ちAからBの脚立へ移動しようとしたその時、「飛べ!飛べるぞ!」という声無き声に導かれ私の足は空を飛んでいた。

しかし飛べずに落下。B脚立のステップのところに右大腿部をぶつけて複雑骨折。救急車で新宿百人町の春山外科へ搬送された。最初は牽引でしばらく引っ張ってから、という予定だったらしいが、結構早めにオペ。複雑骨折した骨片をひとつずつ拾っていかなければいけないので、オペ時間の見積りは4.5時間。しかしロクな準備もしないで始めたせいか、2時間目で血圧急降下、心肺停止。ドクターは慌てまくり患部を針金で固定して応急措置して、蘇生処置!

なんとか生き返り、全身麻酔から目覚めたらいろんな人間が私を取り囲んでいる。何ごと?などと考えている余裕は無い。吐き気、ものすごい頭痛、患部の激痛。身体中にはコードがブチ刺さっている。鉄腕アトムにエネルギーが注入されて動き出すといったような幻覚。ちょっと気持ちが良かった。

1週間は毎日こんな状態で。何と言ってもいくら鎮痛剤をブチ込んでもまったく効かない。オペ途中でやめたもんで寝返りも打てない。眠れない。このあとも、体力が回復するまでは現状維持で患部にギプスを巻いて寝返りうたずに3カ月。

さてそろそろ、体力も回復してきたので二回目のオペを. . . と言ってレントゲンを撮ったら何と応急措置でラフな状態のはずの大腿骨が正常な形に復活している!という。ホントかなとは思ったが、まあまた全身麻酔せずに済んだということて、まずはメデタシだ。

じゃあそのままで一気に回復へ!

ギプスを外してリハビリ。3カ月間起き上がらずにいて起き上がった時のことを今でも覚えている。上半身を起こしただけでめまい。起き上がれない?少しずつ起き上がり、2日くらいかけてようやく正常な姿に。

さらに院内で数ヶ月過ごして約一年間を経て退院。自宅療養となる。

このまま社会復帰していれば良かったが、そうは行かなかった。

退院直前に大腿骨の内部に固定目的で打ち込んであった銀の棒をもう要らんとばかりに抜いてしまい針金も外した。

ところが針金が巻いてあった部分のみ骨が充分に成長せずに、脆弱だったため、自宅療養中に何と再骨折!

川崎労災病院に再入院。約3カ月の入院。

ここで私の怪我遍歴を披露します。

1 ) 中学時代に自転車乗って走行中横断歩道を自転車に乗って横断していた。そこへ大型ダンプカーが走ってきた。そのままだとぶつかる。しかし私は逃げなかった。正に正面衝突。私の身体は180度回転し、頭が下へ。ダンプカーのヘッドライトと私の頭蓋骨との一騎打ち。約5分間気絶した。出血し生温かい血液が肩を伝わり流れて来た。しかしダンプカーのヘッドライトも割れた!私は一矢報いたのだ!負けなかった!しかし1ヵ月の入院。

2) ガソリンスタンドでも災厄に遭った。私はガソリンスタンドでバイトをしていたがダンプカーの荷台を上げるためのポンプがあるので、そのポンプのグリスをチェックしてくれ、と先輩に言われアタマを突っ込んでチェックしていたがその先輩が誤って荷台を下ろしてしまい、大惨事に!私の上歯と下歯は食い違い頬には亀裂が。私のアタマはダンプカーの荷台に挟まれてしまったのだ!

私の頭部は内出血で晴れ上がり、全治3カ月。

内臓は丈夫だが怪我が多い。

じつは、この続きはまだあります。

KOSEI

経歴その1

そもそも、このブログの作者はどんな人間なんだ、という自己紹介みたいなものは、先ず最初に書くべきでしたね。

そこで、遅ればせながら僕の経歴を何回かに分けて書いていきます。

出生

僕が生まれたのは1950年03月29日午後6時25分で、出生時の体重は平均よりも重かったようです。

出生時は桜が満開の時でしたから、桜の花が舞い散る中を母親は僕をダッコしてタクシーで家に帰ってきました。僕は車中から窓越しに、桜の花が舞い散る光景を見ていたわけですが、なんと僕は今でもその光景を覚えているんです!

小さな頃から夢見る少年でした。昔のことなので部屋の片側にはふすまがありました。僕はそのふすまの絵柄をじっと見つめているのが大好きだったのです。なぜならじっと見つめているうちに、その絵柄がニュワ〜っと動き出すのです!

おまけに何処からともなく、歌声のような音楽のような音声が流れてきます。

おかげで、僕は普通の子供が遊ぶようなオモチャには一切興味を示しませんでした。自分の内部に入って遊ぶ方がずっと面白かったのです。だから一人でいることが多かったです。

小学生時代:

人の笑いを取るのには天才的手腕で、クラスでは常に人気ナンバーワン。得意科目は国語、苦手科目は算数、理科、社会、体育。

小学生向けのSFを読み耽りました。

しかし、依然としてほかの子供たちと仲良く遊ぶということは出来ませんでした。

そして体育は大嫌いでした。筋肉質の教師がやたらに競争意識を煽って、熱血な授業を展開しようと躍起です。ところが僕は他人と競争してどうする?というタイプの人間だったので、まったく体育の教師とはソリが合わないというか。したがって運動会などというものはこの世から消えて無くなれ!と毎日祈ってました。

僕は幼心にも思いました。「そんなに相手に勝ちたいなら夜になってこっそり相手の家に行き相手の家のドアを開かないようにしてから、家に火をつければいいじゃないか!」何ごとも実利主義でした。運動会などで勝っても意味がない。

夢: 社会を裏で操る存在になりたい、という願望。

中学時代:

国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフヒトラーが著した「吾が闘争」に傾倒し、かなり感動しました。反ユダヤ主義にも興味を持ってました。

その後東京数寄屋橋交差点で反ユダヤ運動を繰り広げていた三島さんという活動家と知り合い、仲良くなり、三島さんのマンションを訪問することもしばしば。

ある時三島さんから「君はあの太陽を1分間直視出来るか?」と言われた。そこで私は裸眼でカッと目を見開き見事に真っ赤な太陽を1分間直視した。すると三島さんは驚き、「君は紛れもなく神の子だ!」といい私の家に行って親と話したいと言い出した。

後日三島さんは本当に私の家に来て母親に、私が生まれた時の様子を細かく尋ねていた。

同時に私は右翼結社愛国党の親派となり機関紙「愛国新聞」の購読開始した。

愛国党の若き党員山口二矢が当時の社会党書記長浅沼稲次郎を刺殺した事件は僕にも衝撃を与えました。僕は今も山口二矢の獄中手記を持っています。彼の行動をまったく肯定はしないが、何事かを成さんとする時、中途半端はよくないと思う。

一方学校はとりあえず席があるだけで、あんな下らない授業なぞは眼中になく、テスト用紙は常に白紙か、「ばかやろ」と書いて提出しました。中学1年の時家出。万引きと恐喝をして補導さる。挙げ句の果て私は精神病者に仕立て上げられそうになった。どういうことかというと、

自分の部屋にいたらある日突然白衣を着た奴らが3〜4人現れた。私に対してしきりに入院を勧めた。もちろん私の答えは、拒否!

それを母親が依頼したということがわかってダブルショック!私は自分の部屋に火をつけた。

当時の友達は一般的な学生から見れば、不良 (懐かしい表現)だけど、みんな主義主張を持ってた。なにしろ国鉄逗子駅前の交番で我が家のことを尋ねると、すぐわかったくらいだ。

気の合う友達とロックバンドを結成した。中学の時はビートルズ。バンド組んでた時は、リードギターの友人がジミーヘンドリクスに狂ってたので、レパートリーはクリームの曲ばかりだった。渋谷のダンスホール(これも今や死語)に出演してた。なぜか顔にメイクをして、笑笑。

夢: 大暴力団結成 長くなりそうなので続く。

KOSEI

満洲馬賊

以下の記事は以前別のSNSで公開したものです。

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馬賊といえば中国満州

ところがかつて日本人が満洲へ渡り馬賊の統領にまでなったお話を知っている人は意外と少ないと思います。

じつはだいぶ前に私の知り合いの出版社の社長が私に企画書を見せてくれたのですが、いま現在どうなっているかと思って、ネット検索をしたら「馬賊戦記〈上〉―小日向白朗 蘇るヒーロー」Amazonということでちゃんとありました。なんとお勧め度五ツ星です。

ということは「知っている人は意外と少ない」と思っていたのは私だけで「知っている人は意外と多い」のかも知れませんね。初耳だったという人は一度読んでみてください。

その当時の企画書の内容を以下に。

この作品は、中国東北部、旧満州馬賊に身を投じ、遂には日本人でありながら馬賊の大頭目となる、小日向白朗の体験談が元となっているものです。

一人の日本人が、他民族のしかも馬賊と呼ばれる集団に飛び込み、頭角を表し、人間的な触れ合いの中で一歩一歩、階段を上がってゆく。勿論そこには失敗もあれば挫折もあります。

戦いに明け暮れる生活の中で、小日向白朗は日本で言われている馬賊が単なる物盗り、略奪に走る無頼の集団ではなく、乱れ切った当時の中国の軍閥政治に泣かされる民衆の側に立つ、反政府組織である事も知ります。

そして物語は馬賊の捕虜から、若き首領へ。美少女との悲恋を経験したかと思えば、経棚県城襲撃時を指揮。官憲に追われて道教寺院にかくまわれ、拳法の修行に励み、老師の命を受け、社会に害をなす者を始末してまわります。

日本軍と協力して特務工作を行ったり、まさに「波乱万丈」と云ってもまだ追いつかない日本人馬賊王の若き日を白朗本人の視点で描いています。

毎日毎日、携帯電話やコンピュータに囲まれ、血の通わない環境の中で、チマチマとした人生設計を早く立ててしまう現代の若者に是非一読をお願いいたしたく・・・・・・。

当初の出版企画書では「浅田次郎」先生の書籍帯状推薦文がつく予定だったようです。

日本人馬賊・小日向白朗」か「馬賊戦記」でネット検索すると出ます。当初の企画書には「ごま書房」発行とあったのですが、Amazonの画面には、出版社: ストーク; 新装改訂版 (2005/09) とあっり、他のものでは「第二出版」というのもあったので、ごま書房はコケたのかもしれません。詳しい事情知っている人がいたらお知らせください。

私も旧満州のエリアで現在会社を開いていますので、なじみが深く、またこのような冒険ロマンには血沸き肉躍るものです。

KOSEI

神秘学を日常に

2016/08/21

僕の一日は単調な一日です。朝は3時半起きして「八段錦法」という中国の導引術に由来する健康体操をみっちりやります。やることも単調で毎日内容を変えたりしません。午前4時前後までには洗顔をすませて、その後おおよそ50分間、読書の時間に当てています。この時間帯が僕にとって「黄金」の時間帯です。起きたばかりで頭が冴えているので、理解力や記憶力も抜群です。

その後5時には家を出ます。どこに行くかというと「散歩」です。ウォーキングですね。別に正式にウォーキングとして誰かから習ったわけではないのですが、もう10ヶ月ぐらいは続けています。以前はランニングをしていたのですが若いころの怪我が原因で右膝が痛くなったため、ランニングからウォーキングに変更したのです。

最近散歩に出る前の1時間に勉強した内容を散歩中に瞑想しながら歩くようになりました。散歩中はその他にも「ヘブライ文字」の暗記をしています。それもヘブライ文字(形状)と、その文字が持っている意味、対応するタロットカードの意味、そしてヘブライ文字カバラ神秘主義生命の樹とは繋がりがあるために、それも関連付けて暗記していく(カバラとしての意味と生命の樹のどこに当たるか)、同時にゲマトリアで用いるような数値が各文字には決められていますが、その数値の暗記、占星術で用いる10大惑星の関連付け、4大要素(火・地・風・水)の対応付け、対応する現代のアルファベット。ひとつのヘブル文字からそれだけのものを想起させていくのです。僕にとっては娯楽であり楽しい作業です。またこれは「ボケ防止」にもなりますし、今後僕が極めたいと思っているヘルメス哲学の基礎にもなりますので、たゆまぬ努力を続けているわけです(この作業は毎日続けています)。

現在紙に書くレベルであればそのすべてを記憶しましたが、歩きながら行うことにより、つまり日常的な行為とジョイントさせることにより、記憶の奥深くまで入っていくのです。空で暗じることも記憶を定着させます。もっとも結構の年数勉強していますから、「そのすべてを暗記した」といっても、あまり自慢にはなりませんけど。

ところで、今日は朝の学習時間にひとつの啓示をもらいました。今日の学習内容の中に「普遍的な愛」という事が書かれていたのです。人は自分の周りの人に対して、ある人には「愛」を感じ、ある人には感じません。愛を感じる相手というのは「気が合う相手」「仲良し仲間」あるいは恋愛や結婚の世界ならば「一生を伴にしたい相手」であったり、また「家族」といった精神的な繋がりがある場合が多く、逆に愛を感じないという場合、その原因はというと、先ほどとは真逆で「気が合わない相手」、酷いものになると「敵愾心」といったものです。この違いはどこから来るんだろうと考えると、自分が所属したり気が合うグループといったような団体とは相容れないような人に対しては「排他主義」になるのだということです。

これでは戦争・争いが起きるのも無理からぬこと。国家が「これは我々の正義を守るための聖戦である!」というようなことを正々堂々と言ってのけるわけです。「戦争」とは政治の道具であり、人間の生命を奪う悲惨なものです。一方、「聖」とは俗を超越したものです。なので「聖」と「戦」がひとつの熟語になっている事自体が理解不能です。

ところが今朝勉強した「普遍的な愛」というのは、すべての人を自分の仲間として受け止めるという愛情です。この愛は男女間の愛情とはまったく違うもので、もっともっと大きな愛情なのですね。これを自分で意識することが精神的な発達の第一歩なのだそうです。

自分が、とにかくオレが、わたしが、あなたは仲間、あいつは敵、と言って、仲間にはやさしく、敵には破滅を・・・では、入り口にも立っていないということです。

この「普遍的な愛」のパワーはとてつもなく強烈なものということです。この愛のチカラを知っていて活用している人は事業に成功しており、知らない人は人生でさほどの大きな業績を残せない人たちです。

僕は今までいろいろな仕事をやって来ましたが、今になって振り返ると、最後の最後で失敗したときは、どこかで「我」を出しすぎていたようです。相手も自分なのです、相手を傷つければ自分も傷つきます。

毎朝のウオーキングでの気付きはとても有効です。そしてとても気持ちがいいです。

KOSEI

 

OSのハナシ<元SE独白記>

<元SE独白記>  2016/06/16

今日はOSの話をしたいと思います。しかし僕が携わってきた大型汎用機のOSは専門的過ぎてしまうので、ブログの読み物としては重いと思います。そこで、僕が大型汎用機の事務処理計算の仕事に入る前のゲームのプログラミングをやっていた時代までタイムスリップしてみます。パソコンのOS上で開発をしていたのですが、そのころのパソコンのOSは、Windows OSがまだありませんでした。昔の人なら誰でも知っている「MS-DOS」です。もっとも昔はOSといえば「MS-DOS」しかなかったのですが。これは「 Micro Soft Disk Operating System 」のことで、マイクロソフト社開発による、パーソナルコンピュータ向けの16ビットOSです。いまのWindowsのようにきれいなアイコン等はなくて、真っ黒な画面があるだけです。コマンドラインにすべてコマンドを入力してプログラムを動かすのです。

じつは今のWindows OSからエミュレートできるのです。エミュレートというか、Windows OSはそもそもMS-DOSの上に建てられた家のようなものなので、これはWindowsが内部のMS-DOSの機能を使って表示しているということでしょうね。下の画面を見てください。これは僕がいま使っている、どこにでもある「Windows7」で立ち上げたMS-DOSの画面です。

 

最初はこういう画面が出てきます。ここにディレクトリーを表示するコマンド「 dir 」と入力してリターンキィを押します。すると、

 

これは僕の現在のパソコンの中のCディレクトリーの中味を表示しているのです。

このMS-DOSの機能は低いものでした。簡単にファイル管理とメモリー管理を見てみましょう。

ファイル管理:FAT(File Allocation Table 俗称ファット)でファイルを管理。

モリー管理:一時的にアクセス可能なメモリー空間は、最大640KB~768KB程度だったというのですから、いかに低機能だったかですね。そのためバンク切り替え(バーチャルメモリーのようなもの)などで解決していたのですね。

現代のパソコンOSのメモリーはギガ単位です。隔世の感がありますね。

KOSEI