KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

一度も不幸の目に会わなかった者ほど不幸な者はない

ローマ帝国の政治家であり、哲学者であり、詩人である、ルキウス・アントエウス・セネカ(小セネカ)の「神慮について」より、その一部をご紹介します。

セネカに関しては:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AB

神慮について/茂手木元蔵訳/岩波文庫」より引用

/////////////////////////////////////////////////

われらの友デメトリウスの言った沢山の立派な言葉のなかには、私が最近聞いたばかりの次の言葉がある。それは今でも私の耳のなかに響いている。『思うに、一度も不幸の目に会わなかった者ほど不幸な者はない』というのである。つまり、このような者は、かつて自分自身を試練することが許されなかったからである。なるほど、万事は願いどおりに、いや、願う以前も同じように、当人に幸いした。

しかし、この者についての神々の評価は悪かった。いつかは運命に打ち勝てる者になれる素質があるとは見なかったのである。運命は臆病な人間をすべて避ける。それはこう言わんばかりである。『私はどうして、こんな人間を相手に引き受けねばならないのか。彼は直ぐに武器を捨てるであろう。私の全力を彼に傾ける必要はない。ちょっとした脅(おびや)かしにも彼は屈服するであろう。私の顔さえ見ることはできないのだ。他に格闘することのできる相手を見つけよう。負ける準備中の人間に会うことは恥である。』

剣闘士は、自分よりも弱い相手と取り組まされることを不名誉と思う。また危険な目にも会わずに相手に勝つのであれば、それは栄光のない勝利と心得る。運命もこれと同じことをする、己に匹敵する最強の相手を求めるが、相手によっては軽蔑しながら通り過ぎる。相手がきわめて強情で、そのうえきわめて誠実であるならば、運命はその誰にでも近づき、その者に反抗して自己の全力を傾けるであろう。たとえばムキウスには火の試練に、またファブリキウスには貧乏の、ルティリウスには追放の、レグルスには拷問の、ソクラテスには毒薬の、カトーには死の試練に会わせる。偉大な実例を見付け出すのは、不幸な運命だけである。

//////////////////////////////////////////////////

*ムキウス、ファブリキウス、ルティリウス、レグルス、ソクラテス、カトーに関してはネット検索してみて下さい。いずれも古代の勇者として名高い人たちです。ですので、このブログを御覧になっている方で毎日の苦境や不幸に嘆いている方がいらしたら、ぜひ思ってください。あなたは幸せ者なのです。運命に好かれている好敵手なのです。ぜひ闘って勝利を獲得してください。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 マタイによる福音書第4章3節

バイレロという羊飼いの歌です:https://www.youtube.com/watch?v=bHDCHQoZFME