KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

もっとも尊い喜捨行とは?

< もっとも尊い喜捨行 >

むかしヒマラヤの雪の山中で、ある老僧が行き倒れになった。

そこに熊と狐とウサギがやってきた。その3匹は協力してなんとか老僧を助けようとした。熊は自分が得意とするところで川の中から素手で魚を獲って老僧のところへ持ってきた。狐はすばしこく山の中を駆け巡り木の実を見つけて老僧のところへ持ってきた。さてウサギだが熊のような狩猟能力もなく、狐のようなすばしこい動きもないため、色々努力はしたが何も持って来れなかった。熊と狐はウサギを責めた。するとウサギは老僧に火を起こしてくれと頼んだ。はて何のこと?と思いながらも老僧は火をおこした。するとウサギは何とその燃えさかる火中に身を投じたのだ!つまり自分は何も持って来れなかったので、火を起こしてその火で自分の身体を焼いて食べて老僧の身体を回復してくれと言う意味だったのだ。熊は魚を、狐は木の実を、そしてウサギは自分の身を奉げたのだ。ウサギの魂は天高く高く昇っていった。

じつはこの話は手塚治虫氏の作品「ブッダ」の冒頭に出てくるシーンから転写しました。自分の身を棄てて他の人を助ける行為が最も尊い行ないなのです。

つまりこれは「奉仕と献身」ということになりますが、神秘学学徒が自身の人生で持たねばならない大切な原理のひとつです。ここでドーリル博士の「真理の生活」の内容をご紹介します。

チベットの神秘学院では「偉大なる象徴の道」と呼ばれる道に入るためには、その学徒の中に奉仕と献身の意識がなければならないと教えます。キリスト教の聖書に「我々は自我を否定しなければならない」と書いてあるが、これと同じことを言っているのです。多くの人々は「自我の否定」ということを、「自分が愛し好む何ものかを自分自身で懺悔し我慢する事」だと勘違いしていますが、これは自我の否定ではない。自己否定の正しい意味は次のような意味になります。それは真理の道を歩むという事の中には他人への奉仕が含まれているということを知らねばならない。というのは、もし聖なる霊が普遍であるならば、あなたが接する全ての人々の内で無数の異なる面で霊が顕現しているからです。

そして真の道に乗り出す人々は、奉仕への願いがなければならない。多くの人々は、教師でも探求者でも道を歩く全ての人は、ボロをまとい十分な食べ物もなしに歩むべきだと思っています。もし神が全てのものの究極的存在であるならば、神は自己の内に全てのものを持っているのです。だから道にある者は不足欠乏よりは、むしろ豊富な完全状態をなぜ顕現できないのであろうか。どこで人は間違い失敗するのか。それは、人々は神を全てのものを顕現し得るものと考える代わりに、神の一面である欠乏のみを観ているからです。

我々が、欠乏せねばならないと言う事はないのです。我々は、人生にやってくる全ての物事を、他の人々への奉仕に使わねばなりません。そして、その奉仕が他の人々を暗黒から光へと導く助けとなるようにせねばなりません。自己否定は、我々自身が自己の安楽と幸せに必要な物事を否定するものではなく、自己否定とは、聖なる宇宙意識から分離してしまった我々自身の否定なのです。ギリシャ語から訳された聖書では「人が、自分自身を否定しない限り、誰も天の王国を見出すことが出来ない」とある。

そうです、聖は、無限の切子面を持った宝石のようなものです。そして、聖の一分光である我々は、その切子面の一面です。自分はもちろん他の人々の切子面も輝く様にしなければなりません。逆に全ての人々が聖の分光として輝ける存在とならなければ、自分も輝くことができないのです。他人への奉仕は、自分への奉仕ともなるのです。「情けは人の為ならず」です。

KOSEI