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KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

日本民族の固有思想

「大日本詔勅謹解・思想社会篇」「日本民族の固有思想」より

以前このブログで「大日本詔勅謹解・思想社会篇」を書きましたが、その続編です。

Part_2

万葉集に『葦原(あしはら)のみづほのくには、かむながら事あげせぬ国』とあるが、日本民族の固有思想を説くためには、建国の根本思想であるこの『事あげせぬ』ということについて一言(いちごん)せねばならぬ。『事あげせぬ』とは平たく説明すれば、特別に取りたてていうことなく、素直にすらすらと自然に隋順して生長した国で、少しも人間の作為が加わっていないという意味である。支那においては三皇(さんこう)を理想とし、これに次いで五帝、それから王、これに次ぐを覇(は)といい、権力を以て治むるは覇国(はこく)であり、徳を以て治むるは王国であり、徳の優れたのは帝国であり、無為にして化するは皇国であるといっているが、無為とは人の作為を加えた有為(うい)に対する語で、即ち事あげせぬことを意味する。外国の歴史をみるに、古代の国家は多く征服によって統治の権力を得、近代の国家は主として、約束によって統治の大権を定めている。この征服といい約束というも、畢竟(ひっきょう=“つまるところ”の意)、ともに人為であり作為であるが、ひとりわが国は、何等事あげすることなく、自然のままに発生し生長して来ている。即ち皇祖の詔勅(この後“天照大御神”の項で説明されます)は、国家成立の天業(てんぎょう)を経綸(けいりん)したまう神慮の実現であって、天業とは天から授けられし自然の大業を意味し、決して征服とか約束とかという作為や後天的条件を意味するものではない。この『事あげせぬ』思想が観念となって現れているのが、忠の観念である。故にわが国においては、古来天皇に対する忠節は、理論を超越している。何等の理屈なしに、絶対無条件に天皇を崇拝することが、日本民族の自然の感情である。現にこれは、今日(注意:昭和9年の時点です)とてもその通りであって、即ち大日本帝国憲法の第三条は、

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』

と規定しているが、何故に神聖であられるかという理由に就ては別段何も示されていない。しかし国民また誰もそれを怪しむものなく(注意:昭和9年の時点です)、天皇は無条件に神聖であらせらるると信じているが、これは事あげせぬ思想の最もよき現れである。そしてこの思想こそ、日本民族が、二千六百年来、あらゆる大陸文化の影響や、文物制度の変遷に逢いながらも、微動だもすることなく堅持しつづけて来た固有思想である。『おほぎみのみこと畏(かし)こみいそにふり、海原わたるちちははをきて』という助丁丈郎造人麿(すけのよぼろべのみやつこひとまろ)の歌の如きは、忠よりも孝を以て重しとすることを原則とする儒教思想などによっては、理解しがたき思想であって、やはり日本国民のみのもつ、自然の感情である。

 Part2終わり。Part3へ続く

KOSEI