KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

経歴その3

経歴パート3

さて、あの大怪我から一年ほどですっかり回復した。右脚が左脚よりも3cm短いことをのぞけば、私の外貌は健常者と何の変わりもない。最初は杖をついて歩き、その後は多少びっこを引いて歩いていたが、その内まったくわからなくなった。

その後大学というところへもタイミングを逃した感じがして進学はしなかった。

そのような中途半端な時に、ひょんな縁で、前衛芸術家が集まる団体に参加してしまった。

団体名は、燔儀大踏鑑。主宰は土方巽という人だが、この人は知る人ぞ知るという日本の前衛芸術の走りのような人で、元々は舞踊の人。私はその稽古場で毎晩バレーのバーレッスンや回転の訓練に励んだ。

しかし3カ月のギプス生活により崩壊寸前の私の膝はバーレッスンを受け入れるにはかなり厳しかった。バーレッスンは上半身は背筋を伸ばすが腰を落としていく。これは私が後になって経験する空手の訓練とまったく同じだ。歌舞伎役者も分銅を腰からぶら下げてアタマの位置を上下させずに移動する訓練をするという。能役者もまた同様な訓練をするらしい。

私は土方先生の元で信じられないくらい多くのことを学んだ。あのような人はもう現れないのではないか?私は内弟子として住み込みで習った。いろんな人が顔を出していた。文学者が多く、三島由紀夫谷川俊太郎状況劇場唐十郎、その他ありとあらゆる、新しい道を探す冒険家が集う梁山泊だった。

舞踏というものは魔術に近い。澁澤龍彦氏(黒魔術の手帳著者)も交友があった人のひとり。私は用事を言いつけられて澁澤龍彦氏の北鎌倉の自宅まで行ったことがある。天使論の笠井叡も土方先生と交友のあったひとりでした。

居場所を見つけた感があったが、私はもっと魔術を本格的に学びたかった。

何かに不足感があり、不足は充足を求めた。25歳の時に密教の門をくぐった。真言宗三宝院流憲人方 ( しんごんしゅうさんぽういんりゅうけんじんかた )。其処での修行は因縁解脱というもので、これまた私を形成することに大きな効果を発揮した。

しかしこの団体は、真言宗とは言っても、当初は宗教色よりも、アメリカのニューソートのような感じの団体で私はそこに魅力を感じて参加したが、最終的に宗教に向かってしまったので私はその団体を離れた。ひとつの通過点だったのだろうが、色々と勉強して自分のものにしていった。その他にもこの時期には様々なことを吸収した。それらの内最も私に大きな影響を及ぼしたのは、以下の二つだ。

1 > アストロロジー

石川源晃: この人は大戦時には空軍の無線技師。かなり緻密なアストロロジー。私は何年間かこの人のところで学んだ。プロの占星術師が学びに来ていた。なかには日本で西洋の魔術を紹介したような人も多く学んでいた(例えば大沼忠弘氏、ルネバンダール渡辺氏 etc....)。しかし石川先生も故人となり、時間が経つことに虚しさを感じる。

私はその他にも何人かの占星術師に師事したが石川先生ほどの人は皆無だと思う。

2 > 中国拳法

その後中国拳法を佐藤金兵衞先生から学んだ。やはりかなり腰を落とす訓練。この先生は内臓がかなり頑丈だったようで、甥っ子さんから聞いたところによると、毎晩日本酒を二升呑んでたという。しかし何年か会わないでいて久々に訪ねたときは歩くのもやっとのような状態で.....。超人かと思ったが違った。

私はいつの間にか自分を強くするということが目的になってきた。そこで中国拳法には飽き足らず、極真空手へ入門。

私の修行遍歴が始まった。以下経歴4へ続きます。次回からは運命学、武道、神秘修行、という具合に分類して書いていきます。

では。