KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

フリードリヒ・ニーチェ

フリードリヒ・ニーチェ

「狭き門より入れ。狭き門から入る者は救われる。狭き門から入れるのは貧しき者、虐げられた者たちである」=ん?じゃあ幸せになるためには乞食にならなくてはならないのか?奴隷になれといっているんだな!なんだおなじことじゃないか!

ニーチェは晩年『アンチ・クリスト』という本を書いて激しくローマ・カトリック教会を非難した。それはキリスト教が「弱者の思想」だからだ。なんでもかんでも、とにかく弱いものの味方をすることが無前提に正義であり善であるとしているからだ。貧しい者、虐げられた者、弱い者ほど素晴らしいのだ、という思想である。虐げられて、貧しくて、恵まれなくて、愚かであり、ずる賢くなく、病気ばかりしている障害者であるほうが、そのほうが神に近いのだ、という考え方になってしまう。キリスト自身が厳密にそんなことを言っているかどうかわからない。しかし解釈していったら確かにこうなる。のちにアンドレ・ジッドのようなフランス人のカトリック作家が「狭き門」という小説も書いた。「狭き門より入れ。狭き門から入る者は救われる。狭き門から入れるのは貧しき者、虐げられた者たちである」と書いて、金持ち、裕福者たちを差別した。この「貧しき者ほど救われる」という思想をローマ・カトリック教会が、巨大に増幅し、大きくして、自分達の信仰の原理に置いてしまった。

ニーチェは『善悪の彼岸』の中で次のように書いている。

キリスト教の信仰は最初から「供犠(くぎ)」である。すべての自由、すべての衿持(きんじ)、精神のすべての自己確実性を犠牲に供するということである。同時に、奴隷化・自己嘲笑・自己破壊である。軟弱で多様で甚だしく甘やかされた良心に要求されるこの信仰のうちには、残忍と宗教的フェニキア主義とがある。この信仰の前提は、精神の屈服は名状しがたい苦痛を与えるということであり、そうした精神にとって「信仰」は<極度の背理>として現れて来るため、この精神の全過去と全習慣がこれに反抗するということである。

 

この訳文はドイツ語原文からの忠実な翻訳なので少し理解しにくいが、要はニーチェキリスト教の「弱者への拝詭の」、「奴隷思想の虚偽」を徹底的に見破ったのだ。そのため、その主張の中心と根幹を故意に理解されないまま、放置されてきた。それどころか、「ニーチェナチズムを生むに至った全体主義の思想を提唱した人だ」というような、意図的な曲解が日本でも流された人なのだ。

ニーチェ理解への計画的な妨害である。