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中国面白体験記その61<中国の風景_大連>

<中国の風景_大連>  2016/04/04

僕は以前大連にも会社を設立していた時期がありました。貿易会社です。

さて、この風景は大連の旅順という場所にある「旅順口」というところから、入り江を見渡した写真です。いまは静かです。ここら辺一帯は「203高地」として知られていますが、ここで日本軍とロシア軍が激戦を交わしたのですね・・・。いまは静かです。

日露戦争といえば雌雄を決した対馬海峡海戦(日本海海戦)が有名です。バルチック艦隊ウラジオストックに戻るには最短距離の対馬海峡をかならず通ると東郷平八郎は読んで対馬海峡で待ち伏せをしていたのですね。

以下http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-332.html のブログ「しばやんの日々」より引用します。

ここで日露の戦力を比較しておこう。
日本海軍は、戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12他
バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6他
で戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。

ここまで引用:ところが結果はどうだったでしょう?再び引用開始です。

午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十 五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏(か)ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941857/54
海戦は実はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻 が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側 の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。
一方日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。(平間洋一『日露戦争が変えた世界史』による)
結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。

日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。

引用終わり

ちなみに東郷平八郎は英国のネルソン提督から海戦技術を学んだそうです。あの当時は欧米も日本に肩入れしていましたからね。もちろん僕は軍国主義者ではないですが、あの当時のロシア人の強大な武力を背景にした侵略政策を見るにこの小国日本の快挙は「スゴイ!」のひと言です。「小よく大を制す」の武道の精神が面目惹起!

KOSEI