KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

経歴その1

そもそも、このブログの作者はどんな人間なんだ、という自己紹介みたいなものは、先ず最初に書くべきでしたね。

そこで、遅ればせながら僕の経歴を何回かに分けて書いていきます。

出生

僕が生まれたのは1950年03月29日午後6時25分で、出生時の体重は平均よりも重かったようです。

出生時は桜が満開の時でしたから、桜の花が舞い散る中を母親は僕をダッコしてタクシーで家に帰ってきました。僕は車中から窓越しに、桜の花が舞い散る光景を見ていたわけですが、なんと僕は今でもその光景を覚えているんです!

小さな頃から夢見る少年でした。昔のことなので部屋の片側にはふすまがありました。僕はそのふすまの絵柄をじっと見つめているのが大好きだったのです。なぜならじっと見つめているうちに、その絵柄がニュワ〜っと動き出すのです!

おまけに何処からともなく、歌声のような音楽のような音声が流れてきます。

おかげで、僕は普通の子供が遊ぶようなオモチャには一切興味を示しませんでした。自分の内部に入って遊ぶ方がずっと面白かったのです。だから一人でいることが多かったです。

小学生時代:

人の笑いを取るのには天才的手腕で、クラスでは常に人気ナンバーワン。得意科目は国語、苦手科目は算数、理科、社会、体育。

小学生向けのSFを読み耽りました。

しかし、依然としてほかの子供たちと仲良く遊ぶということは出来ませんでした。

そして体育は大嫌いでした。筋肉質の教師がやたらに競争意識を煽って、熱血な授業を展開しようと躍起です。ところが僕は他人と競争してどうする?というタイプの人間だったので、まったく体育の教師とはソリが合わないというか。したがって運動会などというものはこの世から消えて無くなれ!と毎日祈ってました。

僕は幼心にも思いました。「そんなに相手に勝ちたいなら夜になってこっそり相手の家に行き相手の家のドアを開かないようにしてから、家に火をつければいいじゃないか!」何ごとも実利主義でした。運動会などで勝っても意味がない。

夢: 社会を裏で操る存在になりたい、という願望。

中学時代:

国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフヒトラーが著した「吾が闘争」に傾倒し、かなり感動しました。反ユダヤ主義にも興味を持ってました。

その後東京数寄屋橋交差点で反ユダヤ運動を繰り広げていた三島さんという活動家と知り合い、仲良くなり、三島さんのマンションを訪問することもしばしば。

ある時三島さんから「君はあの太陽を1分間直視出来るか?」と言われた。そこで私は裸眼でカッと目を見開き見事に真っ赤な太陽を1分間直視した。すると三島さんは驚き、「君は紛れもなく神の子だ!」といい私の家に行って親と話したいと言い出した。

後日三島さんは本当に私の家に来て母親に、私が生まれた時の様子を細かく尋ねていた。

同時に私は右翼結社愛国党の親派となり機関紙「愛国新聞」の購読開始した。

愛国党の若き党員山口二矢が当時の社会党書記長浅沼稲次郎を刺殺した事件は僕にも衝撃を与えました。僕は今も山口二矢の獄中手記を持っています。彼の行動をまったく肯定はしないが、何事かを成さんとする時、中途半端はよくないと思う。

一方学校はとりあえず席があるだけで、あんな下らない授業なぞは眼中になく、テスト用紙は常に白紙か、「ばかやろ」と書いて提出しました。中学1年の時家出。万引きと恐喝をして補導さる。挙げ句の果て私は精神病者に仕立て上げられそうになった。どういうことかというと、

自分の部屋にいたらある日突然白衣を着た奴らが3〜4人現れた。私に対してしきりに入院を勧めた。もちろん私の答えは、拒否!

それを母親が依頼したということがわかってダブルショック!私は自分の部屋に火をつけた。

当時の友達は一般的な学生から見れば、不良 (懐かしい表現)だけど、みんな主義主張を持ってた。なにしろ国鉄逗子駅前の交番で我が家のことを尋ねると、すぐわかったくらいだ。

気の合う友達とロックバンドを結成した。中学の時はビートルズ。バンド組んでた時は、リードギターの友人がジミーヘンドリクスに狂ってたので、レパートリーはクリームの曲ばかりだった。渋谷のダンスホール(これも今や死語)に出演してた。なぜか顔にメイクをして、笑笑。

夢: 大暴力団結成 長くなりそうなので続く。

KOSEI