KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

自分の人生を変えていく術 その4

 

自分の人生を変えていく術 その4

 

神との個人的同調

M・ドーリル博士 原述その4

 

人生におけるあらゆる事から、あらゆる経験を進歩の教科として使う事は、非常に善い事である。

と言うのは、人生は学校であり、人生は我々が経験から学び、経験を通して学ぶ場だからである。

結局、人間は何を真に受けるのであろうか。

その人が経験したものだけである。その人が知っている唯一の事は、その人が経験したからである。

人は衝動によって自己の行動を導かせてはならない。

これは多分、普通の人々が持っている最大の障害であろう。

彼らが、生じて来る事に対して、非個人的衝動の思考によって行動する事は極めて少なく、衝動によって動く事があまりにも多いのである。

衝動的行動は、常に不均衡をもたらすのである。

我々は、人生において、苦難困難に影響されていると感じている。しかし、我々にとって苦難困難とは何であろうか。

それは、訓練者・教育者ではなかろうか。

それらは、我々に、人生の教科を与えているのではなかろうか。

生きる事には、均衡と平静さがふさわしくないだろうか。

もし、我々が神と同調しようと思うなら、人生のあらゆる変化と栄枯盛衰とを通して、あらゆる外的な嵐や誘惑の中で静穏を保っていなければならないのである。

神は永遠平静の普遍の状態の中にある。

だから我々が神と自己とを同調しようと思ったら、神のようにならなければならないのである。

グルは次の様に言う「もし、人が法則と調和して生きんと欲するなら、自分の接するすべての人に、親切と愛と慈悲とで、自分の名前を書かねばならないのである」

と言うのは、もし我々が人生において他人に何かを表現すれば、それが我々に百倍になって返って来るからである。

エスは「人々の働きによって、あなたは彼を知る」と言われたではないか。言う事によってではないのである。

一部の真理は、実に苦しい事は事実である。

しかし、その賢明な課程は、人々が知らねばならず、人々が直面せねばならない課程なのである。

非真理から形成された感覚的楽園に住む事は、究極真理と実在への同調を閉ざす確実な道である。

人が真理の道に入り弟子となる時、弟子には自己にとって最上の事以外は、何も起こらないのだと悟るべきである。

一度、人が慎重に自分自身をマスター(聖師)の手に置く時、その人はすべての事が適切な時に起こり、その時が世界とその人とにとって、最高の進歩と教科とである事が分かろう。

だから、弟子は自己の道にやって来る事を、満足と朗らかな心とで取り上げねばならないのである。

非個人的(没我的)となる事によって、平和への権利を得ていない人にとっては、平和な暮らしと言うものは、停滞と死を意味するだろう。

平和への道は、絶対的非個人性と成る事によってである。

その時まで、我々は騒乱そのものを表して混乱さすことがある。

しかし、より非個人的となる事によって、我々は人生の諸状況に対してより平和的となり、我々に現れる経験と人生が調和的となる。

我々が学ばなければならない別の特性は「識別」である。

識別は、我々がどこにいようと、人生において必要なものである。

それが、どこで何時かと言う事は、非常に必要な識別である。

もし、我々が純粋霊の注がれる器と成りたいのなら、自己の理想、自己の霊、自己の人生を清めねばならない。

一部の人々が、世界が悪と名付けられるものに影響されている事を、我々は知っている。

多くの人々が直面している問題の一つは、自己の支配の外にある悪である。世の母親が、次の様に言うのを如何に多く私は聞いている事か「あなたは私を助けられませんか。私の息子は酒飲みです。私の夫は、麻薬をやっています。」

悪にふけっている者は、それを克服すべきである事は絶対に必要である。

如何なる悪であろうと、それを取り除くには、三つのことが必要なのである。

第一は、悪それ自体の正確な知識である。

第二は、確かにそれは悪であり、悪を続ける事は馬鹿げている事であり、それは無益な事であると、悟る事である。

第三は、それが現れ目的として保持された時、それを抹殺しようと意志する事である。

その意志は、その悪の住んでいる活動の潜在圏入って行くだろう。

と言うのは、あらゆる悪は或る潜在的な不機能、つまり不調和から起こるからである。

意志は、確かにそれを消し得る。

しかし、それをなくそうとの意志が必要である。

だが、我々がその悪を征服しようと欲するより、それを愛する事を欲したら、それを滅する事ができない。

人生において、如何に謙虚な弟子でも外的世界に生きねばならず、物的世界(外的世界)における彼の人生は宇宙的愛の人生でなければならない。

そうでないと、彼は自己の最高表現を捨てねばならないのである。

我々の現在の意識状態に我々が保持せねばならない偉大なる理想は、全てのものへの宇宙的愛に帰着する事なのである。

もし、我々がこの目標に達しようと努めなかったら、我々は神との同調へのあらゆる経験を捨てる事となろう。

と言うのは、神は経験における聖なる愛だからである。

各々の弟子達がこの世界で、なさねばならない活動的奉仕の内容は、各弟子の能力によって異なってくる。

と言うのは、我々全員は同一ではないからである。

我々は真理を愛さねばならない。

真理を求め、真理に生きねばならない。この様にしてのみ、至高の真理たる聖なる光が観えるようにと成るのである。人は魂の成長を感じ始めると、外的な出来事に、影響されない静穏さを感じ始める。

マスター方、偉大なる方々は、いつも必要なのである。

そして、彼らの奉仕者達は、完全な自己放棄によって自分自身を奉げて来たのである。

そして、肉体と心と魂を静穏で激情のない状態に保ち、聖なる愛と宇宙的奉仕への聖なる霊の顕現に努めて来たのである。

時が経つにつれ、人が生命の本質たる内なる力に益々入って行く事は明白である。

そして、いつか弟子たちは、成長過程を感ずる事も知る事もないうちに、自分が素晴らしく成長している事に驚くだろう。

真に成長している魂は、無意識的に花のような香りと美しさを漂わせながら成長していく。

それは、霊の太陽を摂取する事によって、人々に対する哀れみと同情とによっ て成長するのである。

我々は、苛立ち、憤慨、心配、恐れ、神経過敏、或いはあまりにも熱中しすぎた努力と言ったものに囚われてはいけないのである。

だから、平穏でありなさい。

冷静でありなさい。

非個人的でありなさい。

そして、その上で目標への偏在性を持ちなさい。

かくて、到達への道は神との調和の人生を生きる事によって見出される。神の属性と諸原理とを生きずして神と同調し、神のものを顕現する者は一人もいないのである。

この道を歩くに、我々は自己の外的生活に確かに反映する内的生活に調和を創造するのである。

我々が人生の経験を、表現する人生の顕現は、我々自身の諸欲求、諸概念、霊的諸特性によって創造されるのである。

エスは言われた。

「あなた方は、まず天の国と天の義とを求めなさい。すると、これらの全てのものは、あなた方に与えられるだろう」

これを実行しなさい。

すると、人生のあらゆる事は、あなたの悟りの聖特性を顕すだろう。

 

(了)

 

433号 - 4

自分の人生を変えていく術 その4

 

これで、4回に亘った「神との個人的同調」を終わります。