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自分の可能性をどこまでも

“儀礼”の原理

< “儀礼”の原理 > アレイスター・クロウリー著「魔術 理論と実践」から引用 

あらゆる魔術的<儀礼>の目的を言い表す主要な定義がひとつある。<小宇宙>と<大宇宙>との合体、ということである。したがって、<至高にして完結的な儀礼>は、<聖守護天使>の<召喚>あるいは<神秘主義>の言葉を用いるならば、<神>との<合一>である。

他の魔術的<儀礼>は悉くこの一般原理の個別的事例であり、そうした個別的儀礼をおこなう口実が唯一あるとすれば、<大宇宙>のイメージ、<直観像>もしくは<反射像>たる小宇宙に格別弱い箇所があるために、その不浄な不完全性が<大宇宙>そのものを損なうことも時としてある、という理由による。例えば、<神>は性別を超えた存在であるから、ひとつの性としての男も女も、<神>を十全に理解したり、ましてや表象したりするとはいい得ない。したがって男性の魔術師の務めは自分に欠けている女性的特性を養うことであるが、無論、生来の男性らしさを決して損なわずこの仕事を遂行しなければならない。すると、魔術師がイシスを召喚し、自らをこれと同化するのは正当なこととなろう。もしもこれに失敗すれば、魔術師が<三摩地(さんまじ=サマーディー)>を得る際、彼の<宇宙>理解は母性概念を欠くことになるであろう。結果的にそれは、彼が打ち建てる<宗教>における形而上的かつー自然の帰結によればー倫理的現界となるであろう。ユダヤ教イスラム教は、この失敗の顕著な例である。

儀式的魔術が孕む危険ー最も微妙にしてもっとも深刻な危険ーはこういうことである。魔術師には自ずから自分にとって最も魅力ある局部的存在を召喚しようとする傾向があるので、思うがままにまかせていると、この方向の過剰はさらに大きくなる。自らの業(わざ)を開始する前に、自分自身の存在を精密に計画し、その不均衡が矯正されるように、自らの召喚の手はずを整えよ。( < 913の書 =ブドゥシスの書もしくはジスハルブの書 >に述べてある/*註1:あるいは、W・E・バトラー著< 魔法修行 >にもヒントあり )無論これは、<神殿>の武器と調度を準備する間に予備的な形でなされるべきことではある。

この<儀礼>の<自然>という問題を一層個別的に考察するために、次のように想定してもよかろう。<自然>の特質である<生>と<死>の価値についての知覚が、個々人と諸人種の価値に関する知覚と同様、自分には欠けていることに魔術師が気づくとする。おそらく彼は、仏陀が表わした「始原の高貴な真理」-<一切>は悲しみであるーに想い到ることだろう。<自然>は悲劇だと観ぜられる。多分彼は、<悲しみ>と呼ばれる大いなる恍惚境さえも経験したことがあろう。だとすれば、この<変転(サイクル)>を表わしつつも歓びをその性質とするような<神格>が存在しないものか、と彼は考えるはずである。ディオニュソス(註2)こそ自分が求めるものだ、と彼は悟るであろう。

*註2:ディオニュソスギリシャ神話の豊穣の神

***クローリーの著書は難解なことで有名ですが、上記の内容を要約すると、召喚する神格を選ぶときは自分の隠された特性にまで思いを到らせて選ばないといけないと言う意味だと思います。そのときの特殊な瞑想法が書かれているのが 「913の書」です。

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