「人倫」とは何か
< 「人倫」とは何か > 2016/01/31
アダム・ヴァイスハウプト 「なぜ秘密結社が必要なのか」より引用
「人倫」とは何か
人倫とは人生の安楽をより洗練された形で享受するということに留まらない。また権利という借り物の外観のもとに他者を損なったり、敵対者を壊滅させる、きわめて洗練された技術に留まるものでもない。人倫とは他者の権利を侵害しないことであり、自らの野放図(のほうず)な要求を抑制することであり、内面の完全性や持続的な高次の善なるものを求める衝動であり、自らの置かれている立場とそれに結びついている状況を充分に知ることであり、要するに理性的な自己愛のことなのである。これは少数の人々の間ではなおも珍しい現象であるので、道徳的で、より多く洗練されている見える(本当は単なる)野蛮さが、諸国民の道徳となっているということに、なんの不思議もない。
全国民の道徳と見解は、その構成員や市民の大多数の道徳であり見解である。それゆえ、現在のあらゆる民族で道徳的な人の数が増えるに従って、ある民族の人倫(道徳性)も高まっていく。それなので個々の人をよりよき存在へと変革する者は、その民族を改善することになり、複数の民族をこうして改善することにより、世界の運命もよりよき方向に変革されることとなる。⇒ゆえに、地上に住む者の幸福にとってかくも必要なこの人倫(道徳性)を推し進めるために、個々の人間の人倫(道徳性)も高められるべきなのだろうか?
困難な個々人の道徳性
しかし、まさにそこに最大の困難が潜んでいる時、いったい誰がそれへと決心するだろうか。なぜなら、どうも誰もが実はその反対を要求しているようなのだ。特に高い階級の人々の間で道徳性の好例がかくもまれである。低い階級の者はそのような高い階級の者を手本と仰ぎ、彼等に対して望みと恐れを抱き、自らの不道徳を高位の者の不道徳を例に挙げて正当化している。それゆえ自らに無罪を、否それどころか報償すら約束している。そうでなくても大きすぎる悪徳への誘惑がそれによっていっそう高められ、強力なものとなっている。
そのような時にかくも多くの人々の中で、いったい誰がむなしく善良であること、善良であることでむなしく嘲笑や憎悪、中傷、迫害の対象となることに堪えうる精神(Seele=ゼーレ)の強靭さを持ち合わせているというのか?あらゆる者の内でいったい誰がそれへと決心するというのか?
現在は、ひょっとするといくつかの国益がそれに基づいているといって、悪徳や不正が上意下達(じょういかたつ)的に助長されている。そして、人間のどんな結合も猜疑心を呼び起こしている。支配のための分割は統治の基本法則である。君主たち、さらにはその側近たちの教育が、無知で利己的で正反対のことに関心をもつ人々の監督にゆだねられ、他の事例では湯水のごとくカネが浪費されていることときにそこでだけ倹約が旨とされている。そんな状況のときに、いったい誰がそれへと決心するというのか。
若者に誤った手本が提示され、最高権力者が国民の教育に無関心で、あらゆる先入観や彼等の狭苦しい意図に必要な見解が慎重に維持され、それが教育に盛り込まれ、成育途中の若き世代に、一時しのぎ程度の、正しくない方向性与えられている。そんなときに、いったい誰がそれへと決心するというのか?
このとき、こうした事情のもと、こうした障害のもとでは、人倫(道徳性)が個々の人々の間でもすでにきわめて稀になっていること、広大な地表上のさまざまな民族の間でまったく見つからないことは不思議なことだろうか?むしろ、例えば美徳が単なる名称に過ぎず」、諸国民の、そして全人類の道徳性が夢であり実現不可能なことではないかと疑うべきではないのか?
秘密結社だけが高い人倫の実現を可能にする
最良の領主たちでさえ安全が著しく欠如しているという状況下、より高い人倫(道徳性)を広めようと考えることが阻まれている。それにもかかわらず高い人倫(道徳性)の普及は必要であり、それを実現すれば地上のすべての住人の安息、平和のためになるのであれば、この必要性と現実の溝を埋めるべく、ここで別の方途あるいは機関が当然必要となる。そうすることによって、どこかの非常に手が足りない政府を助け、その憂慮の一部をまだ余裕のある別の者に担わせ、その結果として、すべての国家が白日の下、理性的で啓蒙された、誠実で尊敬すべき、信義に厚く勤勉で、道徳的な臣下を持つことができるようになるのである。
そこで秘密結社がそのための助力をするとすれば、いかなる支配者からも迫害を受けることはないだろう。否むしろ奨励され、存続を許され、庇護を受けることとなろう。というのもこの地上にこの結社をおいて不壊(ふえ)で永続する真理、徳、倫理の上に築かれた権力など存在しないからである。道徳支配においてのみ、今までありもしないものと嘲笑の的であった政治的夢想、プラトン的イデアが可能なのだ。
臣下の者に道徳、誠実無私や至高な魂(Geist=ガイスト)あるいは激情をコントロールする能力といったものが欠けている場合、なし得ることも不可能になる。最良の結社のチャレンジが失敗するのは、往々にしてこれらの欠落に起因しているのだ。ある種の堕落が目を引く場合は、予備措置や代替措置が不可欠である。暴力はしばしば悪用され、相変わらずの人間人間エゴが我々に不信感を抱かせずにはおかない。これらが人々の心をあまりにもお互い同士閉ざしてしまうので、仮に自己の誠実な意図を他人に証明する必要に迫られても、相手の憂慮、疑惑を完全に払拭するほど強力に証明できる人などほとんどいない。われわれの行為、処置はすべて明らかに、このあまねく蔓延(はびこ)っている不信の刻印を受けているのだ。
★以上アダム・ヴァイスハウプトの著書よりの引用です。アダム・ヴァイスハウプトといえば「イルミナティ」という秘密結社の創設者です。陰謀論の立場をとっている方は「イルミナティ=秘密結社=悪」と考えがちですが、批判をする前にまず理解すべきです。そうすると、アダム・ヴァイスハウプトが創設した本来の「イルミナティ」と欧米の超財界人たちに乗っ取られている「イルミナティ」とはまったく別ものだということがわかってきます。
KOSEI