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日英友親交会

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< 日英友親交会について > 2016/02/06

 僕は僕の大先輩であります方が主宰しております『日英友親交会』という団体にて日本と英国の交流を再度盛り上げようと活動をしています。そこで今日のブログでは『日英友親交会』のホームページから紹介文の一部を転載します。( 詳細は⇒ http://ajfea.info/about.html ) 

日英友親交会促進の目的と説明についての主文

 日英友親交会は、幕末明治時代における日英関係についての歴史的原点に基づいて、下述の交流活動を亢進する目的と意義があります。

交流項目の内容と致しましては、下記の通りになります。

(1)スポーツやマーシャルアーツ等の交流 サッカー、ラグビー、テニス、ゴルフ、ヨット、ボート、モーターボート、ホッケー、カーレース、ゲートボール、ボーリング、チャンピオンボール、アーチェリー、フェンシング、ホースレース、ポロ・オートバイレース、スヌーカーバドミントン、卓球、スクオッシュ、バレー、ネットボール、剣道、なぎなた弓道、柔道、空手、合気道、などのマーシャルアーツ,パラリンピック等の交流

(2)観光旅行交流、留学や学術交流、演劇、舞踊、バレー、絵画、芸術、音楽,芸能、アニメ、食文化、燻製文化、英国式庭園活花と日本庭園活花、英国式紅茶茶道と日本式茶道などの交流。

(3)ボーイスカウトガールスカウト、英連合王国にある慈善活動団体の交流。(この場合のあらゆる団体には、名誉総裁として女王以下、英国貴族が絡んでいます。)

(4)産業技術工業界、経済界と政界の交流、及びロイヤル外交の交流。

(5)防衛庁海上自衛隊航空自衛隊、及び海上保安庁と英連合王国側のカウンターパートによる交流。

 戦後歴史教育の空洞化で、日本国の近代化の歴史の原点が忘れられようとしておりますが、英連邦王国は 英語圏国の祖先国として、コモンウエルス(Commonwealth)宗主国、または時にして総帥としても重要な主軸国であります。

 またEECに対するEFTA(スイス北欧等7ヶ国)の中心でもありましたが、英連邦王国自体がEUに加盟してからは、形態が変わっています。しかしスイスはいまだにEUへは加盟していません。

 英国は、世界第二次大戦まで全世界に植民地を有しておりました。しかし戦後そのほとんどの国を独立させてきたものの、歴史的に政経システムにおいては、英語という国際共通語(英国語=公用語)の世界浸透普及という点と、もう一つは世界の航海法航空法を押さえることになるロンドン・グリニッジ天文台を時間軸の基点と決めたことです。英国が地球を24分割し東西経度と南北緯度を定めてきたことなどから、英連邦王国の法体系を採用させました。そしてその影響力は現在も染みついています。

 それに宝石貴金属鉱物資源を午前と午後の世界相場によってロンドンにて建てており、世界金融や元締め保険はその連動により動いています。

幕末から明治時代にかけて、いかに多くの近代文明を日本が英連邦王国から吸収してきたかという事例は枚挙に遑(いとま)がありません。

 それは現代の日本国および日本国民が当たり前に享受している政財経金融・教育・労働組合・警察・消防・郵便・介護・赤十字・医療社会制度・議会制度、国家防衛システム、哲学・スポーツ・文学・演劇・音楽、更に背広・制服・結婚衣装式服礼などが、国民生活様式の中にあまりにも浸透し過ぎていて、現代の日本人自体、それらのほとんど全てが約150年前に「英国から日本に移入」されてきたものである事には気が付いていないのが現実です。

 四海八方が海洋孤島国である「ジャパン」は、英連邦島王国と地理的環境条件が極めて酷似しています。 結婚衣装もウエデイングマーチ(結婚行進曲)もウェディングケーキなども、幕末明治開化時代にもっとも親日的であったビクトリヤ女王のアルバート公との結婚式で、世界で初めて使用されたものに起因します。 サラリーマンの制服である背広も、元はロンドンの仕立屋街サビルロー(Saville Row) 通りの音名が、日本語によって漢字化された当て字であり、日本国歌君が代”の最初の原曲作曲者は、ビクトリヤ女王陛下がいるバッキンガム宮殿の護衛兵軍楽隊長で日本に派遣されて来日していました。 その英国人の軍楽隊指導教官が指導していた最初の楽団が、薩摩藩で結成されて来ていた琵琶法師楽団でした。最初は琵琶琴と洋楽が合わず、日英相互間の音楽習慣による間隔の相違により、互いに滑稽節で苦労したようです。元来、欧米軍楽団には勇壮な金属管楽器が使用されるべきものですが、その習慣を知らない日本側は琵琶(琴)演奏集団をむけるしかなかったのでした。その英国人軍楽隊指導官は、夫婦で訪日滞在した後に親日家になり、現在も夫婦ともに横浜にある外人墓地に眠っています。

 日本人の生活に身近なものでいいますと、カレー粉、ソース、紅茶、カスタード、ヨークシャープリ、ウイスキー、ジン、アイスクリーム、アイスクリーム、シチュー、ラムネ(レモネード)、カルピスの原型等も英国人が日本に持ち込んで来たものです。 カレー粉は、東インド会社時代にインド人主婦が作るカレーの料理法がすり鉢で一日中かかることから、普段流石に辛抱強く気長の英国紳士も業を煮やして、インスタントに料理できるカレー粉を発明しました。それは開発製造会社名のブランドでCBカレーといいました。これを日本で模倣したのがSBカレーです。

 次にソースですが、英国のウスター・ソースを真似して製造したのが、ブルドッグ・ソースですが、戦前戦後の或る時期まで、日本ではカレーを食する際に必ずこのちょっぴり辛めの英国ソースをかけて食する習慣がありました。

 紅茶も英国人の発明品で東インド会社スリランカのセイロンやインドのアッサム、ダージリン地方や中国の港から緑茶の葉を詰めた麻袋を帆船に搭載して、その頃まだスエズ運河(特注:スエズ運河は、はるか後年の1869年『明治2年』にフランス人運河掘削技師レセップスにより開通したもので、ほどなく英国政治史上初のユダヤ系首相デイスレイリが一晩で英国ロスチャイルド家の金融を得て、ほぼ全運河株をトルコの総督から買収してビクトリヤ女王陛下に献上したのです。その時からスエズ運河は英国所有下になった経緯がある。)などがない時代であったので、その頃はインド洋から帆船で赤道を経た後に南下航行し、アフリカ大陸南端の喜望峰CAPE TOWN 近隣の岬(THE CAPE OF GOOD HOPE) を迂回してから、アフリカ西海岸沖の大西洋を北上して、やっと英国島南端の入港玄関口サウスハンプトン港等に至るという長旅を避けられなかったのです。

 このようにして、はるばる海路上を運搬して来た緑茶の葉は、赤道通過の際に熱気に蒸れてしまい、英国に着いて開封して見たらたら緑色から茶色に変色していて、液体の色が紅茶に変わっていたのです。ところが、蒸れた茶も砂糖やミルクやレモンを加えて飲めば、結構美味であるとして煎茶業が始まりました。そしてそれを植民地に逆送して、英国紅茶として世界中に流行らせてしまったのが、英国人であり、羊毛やカシミヤや綿花原料を海外から仕入れて、更に仕上げ加工を行うことで洗練された高級に製品化して、さらに付加価値をつけて再輸出するといういわゆる「加工貿易」の先駆者となっていったのです。

 最後に付言しておかねばならないのは、英国マンチェスターが起源である水車水力活用から、蒸気機関の発明によって世界にエネルギー革命を齎(もた)らしたことが日本への影響は大きいのです。 明治5年日本国初の鉄道が新橋横浜間に開通し、そのレール上を走らせた英国リバプール製の蒸気機関車”弁慶号”を皮ぎりにして、英国製の繊維機械や産業機械などに代表される、先端工業技術が英連邦王国から日本国に齎(もた)られたことは、後年の日本国の先進工業技術立国化への道しるべを示し、促進を促すモチベーションを与えました。その功績は実に大きいといえます。もともと西洋でも英連邦王国の民は産業革命時代にもその兆候が顕著でありましたが、熱心な機械的物作りの匠であるメカ職人発明家が多く輩出した島国でもあり、その点では日本国と極めて共通性があります。豊田佐吉翁、本田宗一郎翁は、カートライトやジェームズワット、スティーブンソン親子、ロールスロイスのロールスに匹敵する類似性が見られます。日本の総合商社も英国の東インド会社をモデルにしてきたと言えないこともありません。 今一度、日英関係史の原点に回帰して、温故知新で歴史を見直す事が、今後の日本国のありかたを探る上で、大きなヒントになると確信致しております。

その意味でこの日英友親交会促進運動は、今最も重要な課題であるといえるでしょう。

★転載おわり

 なお僕の大先輩とは、英国マンチェスター在住の『北 広次郎』という方です。各界に多くの友人を持っており、世界中に信頼の絆を築いていらっしゃる方です。以下は、北 広次郎氏のブログ(エッセイ集)です。「ミスターヨーロッパだより」↓↓↓↓↓

http://www.you-more.jp/esp.php?_page=blog&_authorID=20&_seg=1& 

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