自分の人生を変えていく術 その 3
Dr. M Doreal 白朋誌_433号-3
自分の人生を変えていく術 その3
神との個人的同調
M・ドーリル博士 原述その3
>> 別の障害は「未制御の欲求」である。
あなたの欲求は、あなたを超越した方にのみあるべきである。
我々が沈滞と霊的な死から逃れるのは、意識運動を進める事によってのみなのである。
「あなたの欲求が、あなたを超越した方にのみなければならない」とは、変な言い方に思えるかも知れない。
もし、あなたが努力なしに得る事ができる事のみを望んでいると、あなたは間もなく自分が、人生の限界内においてのみ動いている事に、気付くとは思いませんか。
我々は到達不可能と思われる事に向かって努力する事によって成長するのである。
我々が望めば到達できない事など一つもないのである。
或る年の9月に私が、デンバーを離れて東洋に行った時、人々に私がデンバーに帰って来た時には、立派な教会ができているだろうと言った事を思い出す。
誰もそれを信じなかった。
と言うのは、その時点で教会は、とても得られそうにもなかったからである。
しかし、我々はその教会を得たのである。
私はそれを得ると言う意識・想念以外のものは持たなかったのである。
私が理想と目標とを持ったから、皆さんに一例として、私が帰ってくる迄に教会(鉄筋三階建、デンバー市内の旧本部)が供されると言ったのである。
それは、立派なものであった。
私は、それについて国際電話を掛けて言った「もし、それが我々の得るべき物なら、推し進めて準備しなさい」
彼らは、やろうとして、この世のあらゆる困難に直面した。
ついに彼らは電話してきた「非常に多くの問題が起こって、我々はこれを得られるとは思いません」
そこで、私は言った「よろしい。それを解き放ちなさい」
それから2~3週間の後、何かが非常にうまくいった事を見出し、あらゆる面で起きた障害について決して思わないようになり、我々は教会を手にした。
それは、誰もが不可能だと言っていた事である。我々の人生のあらゆる出来事についても、同様なのである。
私がその成就について何らの疑いも持たずに一貫して進んだから、あらゆる道・チャンネルが開け、それを丁度よい時に入手できたのである。
しばしば為している失敗の一つは、それについてあまりにも早急に結果を出そうとし、あまりにも多くやり過ぎ、理想その他がなくなってしまい、時には理想よりも若干劣るものを欲するようになる事である。
そして、自分が欲するものが得られないのではないかと恐れの余り、本来自分の満足していないものをつかんでしまい、そして、いつも決まってそれから後に、それよりも良いものが我々の前に供されるのではなかろうか。
これが、人生のあらゆる事についての真実である。
我々は自己の理想・完成せるものよりも、より劣ったものを受け入れる事によって、その理想の強さを弱めているのである。
もし、我々が完全よりも劣るものを受け入れようと思うと、自己の人生におおいて完全表現よりも劣るものを直ぐに見出すのである。
別の事は、東洋では「実在」と呼ばれるものについてである。
究極的には、実在のみしか存在しないのである。
それは神である。
他の全ては、幻である。
人間は物についての自己の概念の中に沈潜しているのである。
だから、正しい概念を抱く事が、最も重要な事である。
と言うのは、あなたがあなた自身の心の中に創り出す概念・理想・目標が、今のあなたの周りの人生の諸状況だからである。
古代カバラの哲学者の一人が、かつて次のように言った「人間の内には、完全なる人間の原型がある。しかし、人間がこの完全な人間を自分自身の不均衡・諸欲求・諸理想・諸目的のベールで包んでいるから、完全な人間の顕現を妨げているのである。」
もし、我々が完全にして、より完全な理想を組み立て始めさえすれば、我々が完全のより大なる意識を得るのだから、自己の理想の完全を増加せしめ得るのである。
もし、我々がこの完全のみ求め、その代用となるものを受け入れなければ幻(マーヤ)の覆い(ベール)が消えて、実在が現れるのを見出すであろう。
肉体的弱さは、障害ではない。
肉体に打ち勝つ意志で、霊が肉を超越し得るのである。
非常に多くの人々は何らかの肉体的不調和・弱さがあったら、霊的理想を持つ事ができないと思っている。
そのような信念は誤りである。
物質肉体は完全となすべきであり、完全となり得る事は真実であるが、そこに霊的な力・能力が流れ入らない限り、どうして物質肉体が完全となり得ようか。
そして、その霊力は我々が内なる理想状態を求めない限り、やって来る事ができないのである。
霊的滋養の同化過程は物的エネルギーをまったく消費しない。
そして、霊的発達は、肉体が苦しんでいる間でさえも続け得る。
飢えや肉体の苦行が霊的経験を観応させるとの仮定は、知識と均衡の欠如による全くの誤った信念なのである。
脳意識に印象される霊経験の為の正しい時がやって来た時、肉体は邪魔にはならない。
それは肉体の弱さや強さの問題ではない。
印度の行者達は、釘を打ち並べたベッド等で自分自身の肉体を苦しめ、肉体を支配することを求めている。
しかし、彼らのそのような方法だけでは霊的経験を得る事ができない。
そして、また肉体の弱さは霊的経験を妨げる事はない。
と言うのは、霊的な経験はあらゆる物的なものを超越しているからである。
別の事は「霊的な生命と愛とは、使う事によってなくなる事はない」である。
消費する事により、より豊かになり、より強さを増すのである。
霊的経験つまり霊的な力・機能の使用によっては、物質肉体を弱めたり消費したりはしないのである。
強さは、あなたがそれを表現すればする程得られるのである。
別の事は「満足」である。
できるだけ幸福であり、満足しているように、としなさい。
と言うのは、喜びの中にのみ霊的生命を見出す事ができるからである。
悲しみは、無知と清明な思考の欠如から来るのである。
ほとんどの人々は不幸であり、不満足である。
なぜであろうか?
と言うのは、彼らの不平不満はそれ自体が不均衡であり、それが普遍的な不満を起こしているのだと言う事を学んでいないからである。
だから、状況の如何にかかわらず、それに対して非個人的態度を保持しなさい。
いつだろうと「もし、私がこの状況を抜け出したら」と言ってはならない。
何も言ってはならない。
理想を保持しなさい。
すると、あなたはその状況から上昇するだろう。
あなたの心の中に、いつも理想を保持していなさい。
この方法によってのみ、あなたは上昇できるのである。
433号-3
自分の人生を変えていく術 その3
終
自分の人生を変えていく術 その4
へ続く
自分の人生を変えていく術 その2
自分の人生を変えていく術 その2
白朋誌 433号-2
神との個人的同調 -2
M・ドーリル博士 原述その2
●次の障害は「憎しみ」である。
我々は、どんな人もどんなものも憎んではならない。
憎むことによって、我々は自分自身を不調和で不秩序な人生と同調させ、神からより遠くへと引き離されて行くのである。
我々が自分自身の内に保持しようと努めている理想意識の内には、憎しみの入る余地はないのである。
神々との同調を求めている者は、次のようなことができる。
それは、旧約聖書の中には「神が或る種族、この種族を憎む」と書いてあるが、自己の本性の中では、憎みなしにいることができるのである。
神は、そのその真の非個人性の故に、真に神であるが故に、自己の創造物の何物をも憎まないのである。
もし、神が一瞬だろうと何かを憎んだら、そのものは存在化しなくなる。
と言うのは、ものが存在化しているのは、神がそれを愛しているからなのである。
それらの者達が失落した度合いに係らずである。
もし、神が全てであり、我々の魂が神の中にあるのなら、恐れるべきものに何があろうか。
もし、神が全てであり、我々の魂が神の中にあるのなら、恐れるべきものに何があろうか。
恐怖心は神からの分離意識を持った者のみが持つのである。
我々が自己の理想と諸行為とによって神へとより近づいた時、我々はより強くなる。
或るグルが、或る時私に「天の国には、全く恐怖がない」と言った。
なぜ、人々は物事を怖れるのだろうか。それは、彼自身の内と潜在心との中に、自分は霊・神と調和して顕現していないと気付いているからである。
人は理想を持たないから、未知のものを恐れるのである。
死が未知であるから、人は死を恐れるのである。
だが、神が存在の全てであれば、我々の霊、我々の意識、我々の魂は、神の部分である。
もし、我々が「私は父におり、父は私におり、あなた方は私におり、全ては一である」というイエスの真理を悟ると、そこにある恐れとは、何であろうか。
「私は、如何なる悪も恐れない。と言うのは、あなたが私と共にあるからである。あなたは私を支える私の棒であり、杖である。」
それでも人々は恐れるのである。
と言うのは、人々は神を知らないからである。
人が恐れるのは、彼らが神から離れているからであり、彼が理想を持たないからであり、神との同調と言う意識的目標すら持たないからである。
それから、私が神と言う語を使う時、私がアラー、梵、マニト(アメリカインディアンの語)という時と何ら相違はないのである。
これらは、全て神霊の表現に、人が適用した用語にすぎないのである。
人生において、我々が学ばねばならない別の事は「敵」と言う言葉のもとに定義付けられる人々に対して適切な態度を、保持すると言う事である。我々の持つ事のできる唯一の敵は、我々自身なのである。
敵とは、我々自身の心の中での神に対する意識の欠如なのである。
この世には、我々を憎んでいる人々がいるだろう。
そして、彼らは我々を敵と思っている事だろう。
しかし、彼らは我々の敵ではないのである。
というのは、暗黒は光を憎む。しかし、光は暗黒を憎まないからである。
光は、それがどの様なものだろうと、全てのものを愛するのである。
イエスが「悪に抗するな」と言われた時、彼は無抵抗の法則を言い表したのである。
と言うのは、もし誰かが我々を敵と考え、悪とネガティブの想念を我々に向け、我々を物的・心的・霊的に傷つけようとしても、我々が、我々自身の心の中に、彼らへの完全で聖なる愛のみを持っていたら、彼らの言う事が何だろうと、彼らのなす事が何だろうと、我々には決して触れ得ないと言う事は真実だからである。
それらは、決して我々の心に入り込む事はできないし、我々に影響を与えられない。
と言うのは、我々が聖調和の意識を持っている時、他の人々が送り出した悪は、彼らに逆に向かって行き、その送り出した者を滅ぼすだけだからである。
これに対し、もし我々が悪に対して悪で報い、憎しみに対して憎しみで報いると、我々は燃えている火に油を注ぐ事になるのである。
私は聖書に「完全な愛は、あらゆる恐怖を追い出す」とある記述を思い出す。しかし、我々が理想・目標を設定せずして、どうして我々の心の内に完全な愛を創り始める事ができようか。
●我々の道における別の障害は [ 心的不調和 ]である。
心的調和を得る唯一の方法は、心に入る想念やあらゆる状況に対して非個人的、
非利己的態度を示そうと決心する事である。
と言うのは、我々が何かの状況や物を個人的に受け入れる程、それがより多く我々に反応して来るからである。
私は、人々の心が乱され、自分自身が落胆の状態に陥るような状況で、起こる最初の想念はいつもネガティブで不調和で破壊的なものである事を見出すのである。
私自身の体験でも、誰かが電話を掛けて来て、次のように言うのを如何に多く聞いた事か「私は悩み苦しんでいます。私は自殺しようかと思っています。私は自分自身を滅します。」
なぜであろうか?
それはネガティブで不調和な想念が暗黒の中に我々を深く導いているからである。しかし、私は次のように言うのである。今までに、私に自殺しますと言って自殺した人は一人もいない。
あなたは、大人気なさと若干の不調和とに気付くだろう。
それが心に大きく残っていて、別の想念が、もう入らなくなるのである。
だから、理想を創り上げなさい。
如何なる不調和想念も斥けなさい。
起こって来るあらゆる問題、あらゆる事に対して絶対的非個人的態度を取りなさい。
すると、あなたは間もなく、その問題がなくなっている事に気付くだろう。
私は皆さんに、次の事を言おう。
私は、自分自身の経験から、解決できない問題はひとつも見出すことができなかった。
私は、私が接した数千人の人々の内の99%の人々によりも多くの問題に行き当って来たが、それを前述のようにする事で、全て解決できたのである。
自分の人生を変えていく術 その2
神との個人的同調 その2 終
神との個人的同調 その3 に続く
自分の人生を変えていく術 その1
前回書いた「不思議な能力 」ともつながる内容です:
僕は別の魔術サイトで「魔術」の具体的な方法についていくつか書きました。
では人はなぜ魔術に惹かれるのでしょうか?それは自分の想いを現実世界で形にしたいからです。
最近妙なことに気づきました。それはどういうことかというと・・・。
魔術代行を引き受けていた時(現在お引き受けはしていません)、依頼に見えた方のお願い事が現実になるようにと、お祈りをするのですが(主に儀式魔術を用います)、不思議なことに、同時に僕の生活にも変化が起きてくるのです。最初のうちは偶々だろうと思っていましたが、決してそうではありません。それも良い方向に変化していき、往々にして物事が順調に流れ始めるのです。
なぜだろうか?いくら考えても判りません。
この話は、このブログでも以前書いたと思うのですが、僕は以前中国大陸で会社を経営していました。そのときに会社の目に見えない流れをアドバイスしてもらおうと思い中国道教の道士さん(僧侶)と、非常勤顧問という形で契約を結んだのです。
ある日、僕は個人的にその人に自分の前世を観てもらいました。彼がいうには僕は前世で天界にいて神官をやっていた、とのこと。以前密教門に入っていた時に阿闍梨様に自分の適職を尋ねたところ「宗教家」という霊示を戴いたことがあるので、その中国道士のかたの言葉を聞いた時には・・やっぱり・・、と感じたことを覚えています。
天界というのは一種の象徴的な表現であり、普通の言葉に置き換えるなら、「目に見えない霊的な世界の探究をし、それにより色々な方の相談に乗る(僧侶の仕事)」ということです。まあ宗教家の仕事ですね。魔術は宗教とは違いますが、やることは同じです。まさに適職です。
そういうことなので、現世で説明ができない事がある場合は、前世という考え方に立つと意外と答えが見つかるものです。前世からのものを引きずってこの世に生まれてきているわけですから、当然と言えば当然ですね。
そこで僕は先ほどの疑問を「前世からの流れ」に則って考えてみました。なぜ自分は魔術が効きやすいのか?という疑問です。その答えが出れば他の人とも共有できますから。
前世と言っても現世の流れもその前世の流れに乗っているはずです。考えてみれば僕の生れ落ちた環境はクリスチャンの家で親戚はほとんど信仰者です。僕が出産した時は聖歌とともに生まれたそうです。そして、教会へは毎週お祈りに行き、入った学校はミッション・スクールで、自分の周囲は神様だらけだったわけです。
そして自分の経歴を顧みると、キリスト教に限界を感じ、密教や道教の訓練を行ってきたので、長い間の訓練により、僕の「神オーラ」は増強されたと思います。
さて魔術と「悪魔召喚」を研究して分かったことは、術者の願いを叶えるために動いてくれる霊的な存在は低次元の霊体です。そしてその霊体を動かす時の一番効率の良い方法は「私は神の代理である(もしくは神そのものである)」と言って悪魔を「脅す」わけですね。
しかし僕は長い間宗教の別は関係なく、「神オーラ」を浴び続けて来たために、あえて脅さなくてもその波動で魔物が反応するはずです。
それが、自分のために行った魔術でもないのに僕の生活に変化が現れる理由ではないか?というのが現段階での僕の結論です。
もっとも、僕以外にもスピリチュアルな環境に生れ落ちた人は沢山いますけど、すべての人が天界出身ではないと思いますし、またそういう人は僕と同じように「魔術の効きが良い」わけではないでしょう。その他のプラスアルファーが重要なファクターにもよると思います。
そして、肝心の祈祷(魔術)を依頼した方への効果は、というと、それはその方の前世を含めた過去によりますから、結果は様々なのです。ある方には効果が速く顕著に現れるが別の人にはそこまで速度も効果の強さも大きくない、といった違いとなってくるのです。様々な要素がその人の魔術に対しての敏感性を決定します。
効果のあらわれが遅い人や、効果が出ない人に、まさかキリスト教や仏教の宗教を勧誘するわけにもいかず、困っていました。そもそも僕自身は宗教団体は嫌いです。
なぜかというと、僕は宗教の独断的な態度が嫌いなのです。僕自身はキリスト教日本聖公会の信徒ですが、造反した理由はそこです。現在神との接点は別のところでおこなっています。
それは何かと言うと「神智学」系のトレーニング・システムです。キリスト教と密教を一つにしたようなもので(それが魔術なのですが)す。そもそも神とは形もないものなので、それをどのようにして自分のものにしていくか、ということはまず普通のやり方では成功しません。魔術と言う方法もその選択肢のひとつですが、残念ながらすべての人に向いているとは言えません。そこで僕は神に近づく方法のひとつとして「神智学」というものを提案します。
さて僕は、魔術サイトにも書いたのですが、米国の宗教である「Brotherhood of The White Temple」の創始者ドーリル博士の秘伝を学んでいます。秘伝と言うのは考え方と技法です。
以下はデータです。
Dr. Muriel. Doreal (本名:Mr. Claud. Dodgin)
Brotherhood of The White Temple
https://brotherhoodofthewhitetemple.com
ドーリル博士の説かれた宇宙真理(ニューエイジ系の神智学と言われることもあります)の普及を目的とした「白朋」という宗教団体が日本にあります。
僕はこの団体の「白朋誌」というものを定期購読しています。これから何回か白朋誌の内容の抜粋をご紹介していきます。考え方を変えると不思議なことに人生が変わっていきます。ドーリル博士の技法(呼吸法や瞑想法)もありますが、自分自身の視点をまず変えていくことをお薦めします。
興味を持った方は上記のウェブサイトを訪問し白朋誌を申し込んでください。購読料は1年間3,000円です。
ところで非常にまぎわらしいのですが、
「The Great White Brotherhood」という団体があります。
これも僕の魔術サイトで紹介していますが、ドーリル博士の
「Brotherhood of The White Temple」とは別物です。
では・・・・・開始します
Dr. M. Doreal 白朋誌NO433より
この内容は書籍として発行されていないものです。
ちょっと長いので2部に分けます。今回は433-1
433号-1
神との個人的同調
M・ドーリル博士 原述
多分、次の言葉ほど繰り返して言われるものはないだろう。
『もし、人が聖なる法則(聖法則)と自分自身とを調和する事を学んだら、その人は自己の物的人生の全ての物事を秩序化し、支配し得る』
しかし、この言葉は神秘形而上学の仲間の間では、全く普遍のものである。だが、自分自身と聖法則とを調和化する為の明白で簡単な指示を与えようとする者が、極めて少ない事を我々は見出すのである。
如何なる者も聖法則を破ることができないと言われている。
その人は、聖法則に対して自分自身を破るだけである。
だから、私は、道にある全ての学徒が、この不変の法則を、もはや自分自身で破らないために、聖法則と自分自身を如何に調和するかを真剣に考えるべきだと思うのである。
東洋では人生の輪は、また法則の輪であり、人が人生の輪から解き放たれる迄は、その人生の輪によって縛られるのだと教えられるのである。
もし、我々がこの聖法則と絶対調和で行動し、考え、生きることを学んだら、我々の人生には如何なる種類の不調和・ネガティブの現れもなくなるのである。
私は、我々が人生の事に対して取らねばならない物的態度・心的態度・霊的態度を簡潔に明快に正確に述べようと思う。
もし、我々が聖法則との調和を得る事ができたら、人類の大多数に影響を与えている束縛を取り除くことができるのである。
東洋の私のグル(師)達の一人の言葉を皆さんに話そう。
と言うのは、これ程ハッキリした言葉を聞いた事がないからである。
それは『同調への探究者は、愛に始まって愛に終わる。』である。
完全なる聖なる愛の一瞬が我々に永遠の自由をもたらすのである。
それは何時間でもなく、何日間でもなく、何週間でもなく、単なる一瞬なのである。
知識と愛とは究極的にひとつであり、同じものである。
我々は知識と知恵を求めるように言われているが、しかし、単に知識を求めよというだけでは不十分である。
我々は、どこで知識を求めるのであろうか。
本の中でだろうか。
本の中には、知識はない。
智慧もそうである。
書物は知識を単に集めただけの物であり、知識と智慧とへの人間の探究の記録が書かれてあるだけである。
唯一の永遠で無限で変化も転回もしない知識・智慧というものがある。
それは、聖なる知識と聖なる智慧を、我々自身の意識の中で創造することによって、見出せるのである。
それは、聖なる愛の意識の一瞬においてさえもである。
『聖なる愛を創造せよ』ということは、単なる「命令」以上により多くの説明を要するということは、私も知っている。
霊の光輝が、あなたに降りる聖なる愛の瞬間を、あなたにもたらす意識を発達させるために、あなたがなすべきことを示そう。
それは、聖なる霊(聖霊)・真理の霊は、それを求める者の額に宿るということである。
そのグルは、絶えず『私について来て、愛を以って私を拝む者達に、彼らが私の処へ来ることによって、彼らの意志に指示を与える』と言った。
そのグルが「私」と言うのは、自分自身のことを言っているのではなく、「神」のことを言っているのである。
「神」には多くの名称があり「神」に適用される用語は沢山ある。
「神」との個人的同調を求める者は、まず最初に自己の理想状態を創造せねばならない。
それから、それを自己の意識に完全に持ち続けなければならない。
そうすることによって、それに向かって揺れることなく進むであろう。
と言うのは、目標としての理想を創り出すまでは、それを創り出さない限り、我々は無目的に人生を漂流し、我々の処を過ぎ去る流れの中であちらこちらへと流転するだろうからである。我々は自己の運命を選ぶことさえできないから、自己の運命の主人ではない。我々が進んで行く旅の道を指示できないから、自己の魂の船長ではない。だから「神」との個人的同調を求める人々への最初の指示は『あなたの心の中に、あなたがあらわそうと欲する最高の理想を創造せよ』である。
そして『その理想を揺れることなく諸状況・あなたの周りの物事によっても何らの影響も受けることなく保持しなさい』ということである。
人が、自己の理想を設定した時、その人は、その人は、物的なことだろうと心的なことだろうと霊的なことだろうと、何らかの欠乏を言ってはならず、思ってもいけない。というのは、何らかの欠乏を自己の心・意識に入り込ませることが、我々の理想を乱すからである。
また、霊の中には如何なる欠乏も存在しないからである。
そこには、あらゆる豊かさがある。
そこには普遍の善があり、調和以外のものは存在しないからである。
かくて、我々は『聖』の性質に反する如何なる態度をも自己の意識に保持することを斥けなければならない。
と言うのは、もし我々が反対の想念を持ち、それを表したら、我々は自己の人生にそれを実現するからである。
それは目標への確信と聖現前の普遍性の欠如であり、それが自己の望むものの実現を妨げるのである。
それは我々が、自己の内に不均衡を保っているのである。
我々の人生のあらゆる想念、行為の中で我々は、自己の各想念、各行為の中で形成してきた理想を表現すべく求めなければならないのである。
あなたが話す時は、あなたが形成した理想に反することを話してはならない。あなたが考える時は、あなたが形成してきた理想に反する考えをしてはいけない。
かくてあなたは、あなたの人生にやって来る反映によってより強く強固な理想、想念を形成するだろう。
さて人生における或る特定の事と、それらの事に対してとらねばならない態度とについて学ぼう。
最初の事は、それについて多くの疑問が出されている事だが [ 義務 ] と言う事である。
グルは次の様に言う。
『やって来た義務はどの様なものだろうと受け入れ、全力でそれを成し遂げよ。しかし、あなたの最高の義務は、神へのものであることをいつも覚えていなさい』
個人の霊への義務を越えるような義務はないのである。
- あなたの持つ最初の義務は、あなたが自分自身の内に創り上げた理想と目標とに真実であるということである。
と言うのは、もし、あなたが自己の理想に偽りであり、あなたの求めている目標に偽りであると、あなたの人生にネガティブと不調和と偽りとを顕現することは確実だからである。
マスター(聖師)が、『人よ、汝自身に真実であれ』と言う時、これは多分あらゆる神秘学の与えるものの中での最高の真理であろう。
真実であると言う事は、我々の肉体の物的なものに真実であると言う事ではなく、我々が自己の内に形成している霊的聖的な理想に真実であると言う事である。
と言うのは、神は最初であり最後であり、アルファとオメガであり、始まりと終わりとであるからである。
神の聖なる特性を分け持っている我々の内性は、我々が自己の注意をそれに向ける度合いに応じて顕現していると言う事は真実である。
ほとんどの人々は、最初には完全な理想を形成する」ことができない事はもっともな事である。
しかし我々が形成し得る理想に従ってより完全に生きる事によって、より大なる理想を成長させ創造し得るのである。
この世にある人は、物事を征服してマスターと成った聖師と同じ理想(理念)を持つ事ができない事は真実である。しかし、彼は大衆の一人である時に、まず自己の理念を創造し、その理念に真実であり、聖のより大なる理念と、より大なる意識に向かって成長し拡大し得るのである。
彼がそのようにする事によって、その理念がより大となり、より完全となるのである。
聖なる同調をもたらさんと求めている者は、理想と目的とに一体となっている人々の中に友を求めるべきなのである。
イエスは、「私の働きをなす者が、我が父であり、我が母であり、我が兄弟姉妹である」と言われたではないか。もし我々が自分で高い理念を持っていても、その理念に反する人々と接し劣化させたら、それは自ら自己の理念を低下させること事なのである。
そしてそれは、周りの不調和によって満たされ、破壊することなのである。
だから、我々は友を、選ばねばならないのである。
我々は大衆の一人として高級界と高級意識状態にと高揚する意思もなく、人生の輪に縛られ続けていくのか。
それとも、イエスが言われたように、まず天の王国を求める者になるのかである。
もし、我々が神の国を見出さんとしているのなら、まず天の国を求めねばならないのである。
- この世において、我々が注意せねばならない他の特性は、[ 寛容 ]である。意識には多くの場合、程度と言うものがある。
我々が自己の理想を形成しても、隣人達の理念・理想をさげすんではならない。
というのは、彼らはあなたと完全に意見が一致しないからである。
異なる意識の人々が、それぞれ自身の理想を形成するのであり、それが或る意識の度合いから、次の度合いへと進む毎に成長して、常により高い意識へと進むのである。
他人の見解・信念が自分自身のものと絶対的に反対であっても、それらに対する不寛容は、道における進歩の印ではない。
むしろ、退歩の印、後戻りの印である。中でもとりわけ、聖なる霊のかすかな光を見始めた道にある者は、全ての人々が道にあって、一部の者は或る道を見、他の者が他の道を見るのだと悟らねばならないという事なのである。だから、我々と神との個人的同調をもたらす霊的態度を保持しようとするならば、自己の人生における全ての行為と想念の中であらゆる方法で寛容を表さねばならないのである。
しかし、これが我々の理念に反するものであったら、我々がその中に入っていって自己の寛容を示さねばならないと言う事ではない。
これは、義務で説明できる。最初の義務は神へのものである。
だから、誰かが悪い事をしていて、我々自身の理想・理解・意識から見て明らかに間違っていると思えても、多分、その当事者達の理想・理解・意識では間違っていないのだろうと言う事を覚えておきなさい。
多分、彼らはそれ以上のよいものを知らないのだろう。多分、彼らの持っている意識が、一般の道徳綱領にまで成長していないのだろう。
非難してはいけない。
イエスが次の様に言われた事を覚えておきなさい。
『私は誰も裁かない。天にいます父のみが裁かれるのである。もし、私が裁けば私の裁きは正しい』
しかし、それでもイエスは、彼自身の本性の中に聖の意識と力を持っておられたにもかかわらず、裁かれなかったのである。
法則が裁くのである。
法則があなたの人生のあらゆる瞬間を裁いているのである。
あなたの態度、あなたの諸特性、あなたの表現、想念などの全ては、あなたの人生の一日一日の瞬間における経験を形成するのである。
- 神との個人的同調を求める者が、自己の本性の中に増加すべき別の特性は、[非個人性] である。
神は、個人的(人格的)な神ではない。神は神の性質の故に、非個人的である。神は他の人々を越えて一人の人だけを偏愛する事はないのである。
もし、神が偏愛するとすれば、唯一の聖法則がなくなる事になろう。
そこには聖正義がない事になり、そのような神がいる処では、調和状態が破られてしまう事となろう。
人々は神が自分を偏愛する事を望んで、神を選ぶ。
しかし、そうではないのである。
神が法則を創造し、人間がその法則と調和して生きるのであり、そのようにして初めて自己の理想の人生を、経験するのである。
或いは、法則と不調和に生きて、聖法則と調和して生きる者にやって来る孝徳を自分から取り除くかなのである。
だから、人はあらゆるものに対して非個人的態度を取らねばならないのである。
このようにして初めて自分の周りの人生の諸条件をハッキリと見る事ができるのである。
私の処へ、病気を治してもらいに誰かが来た時、私が彼らの持って来た病気の状態に自分自身を入れたら、その病気の個人的性質の故に、私は個人的となってしまう。
そして、非個人的法則が顕現する治療の聖なる力が、私を通して解放される事が不可能となる事であろう。
これは、人を見たり感じたりしてはいけないという意味ではなく、他人の状況だろうと自分の状況だろうと、それらをどれも、同様に非個人的な観点から見るべきだと言うことである。
我々は、自分自身の理想の部分でない諸状況、環境、諸経験から自分自身を引き離さねばならない。
私が、この人生でいろんな経験をしたことは、皆さんも知っていよう。
私は、経験を通じて次のことを見出した。それは、私の周りに群がって来て起こるどのような事でも、それらが私に影響を及ぼさないとの意識を持っている限り、私がそれらを非個人的な分離の意識で見ている限り、それらは消えてしまうか、私の抱いている理念と調和したものに変換されるかするのである。
もし、私がそれらの物的なものの中へ入ったら、皆さんが縛られているように私も縛られるのである。
別のことは若干物質的な事である。
即ち、我々が物質世界でなしている働き、仕事についてである。
その仕事がどんな仕事であろうと、銀行員だろうと靴磨きだろうと大工だろうと溝堀だろうと牧師だろうと主婦だろうと、我々は自己の物的なことに対しては、我々の霊的な事と同様に聖なる非個人的愛を持っていなければならない。
そうすると、我々の人生の物的な事柄を霊的理想の反映とできるのである。皆さんが知っているように、我々はあまりにも物に接近しすぎる。
我々は遠くからは見る事ができないのである。
我々のすべては、なんらかの仕事に従事している。
その仕事を個人的なものとして見ず、その仕事の中に理想を保持したら、我々の人生のあらゆる物的な事柄は、我々のとる態度によって色付けられ始める。
そして、我々の霊的理想を物質界において実現させ得るような物的状況を現し始めるのである。
433号-2 へ続く
Kosei
不思議な能力
ブログ無更新状態がそうとう長く続きました。
最近は魔術サイト「Luciferian Magick」の更新ばかりに集中してしまい、こちらの「KOSEIのブログ」の方は疎遠になってしまいました。
しかしこのパンデミック自宅待機期間は時間がありますので、この機会にブログの更新の習慣も復活させようと思います。読者の方からも「ブログの更新もしてください」といわれました。
僕の本業は国際貿易の仲介業なので、クライアントのほとんどは外国人です。なので、その仕事は日本でおこなわれることはなくて、舞台は外国です。英国、欧州連合(EU)、中東、アメリカ、中国、香港.......。
ただし、国同士の交流が自然にできている内は問題ないのですが、今のような世界的に伝染病が蔓延して(パンデミック状態)くると、途端に影響を受けます。じつは今、現在ほとんどの業務がストップ状態で、苦しい状態です。
しかし、不思議なことがあります。僕はずっと中国との交易をやったり、中国に会社を設立したり、といった活動が多かったのですが、このコロナ騒動(COVID-19)が起こるほんの数か月前からビジネスパートナーとなっていた中国人との関係が次々とギクシャクしだして、パンデミック宣言が出たころは中国との関係はまったくなくなっていました。
何かしらのトランザクションが始まってしまうと、なにかと中国と関わらなくてはいけないので、その意味ではとても良い流れになっていたのです。
なぜならば、その後米中関係が対立関係になり、それがさらに激化しだしたため、日本は米国の同盟国として、何かにつけ対中国では規制が発生し神経を使うことも多くなったはずです。
じつは、このような事態は僕の人生で頻繁に発生してきました。人生上何かしらの大きな危険が降りかかろうとするときは、それらが自然に回避されたり、なにか自分が求める事があれば、自然と手に入る・・・、といった流れです。目に見えない力が働いていると言えます。
現に今回も、中国人とのビジネスパートナーとは疎遠になりましたが、その後ナゼかアフリカ人との交流が盛んになり大きな成果につながる兆しなのです。
ただし、自分が求めたものが自分には合っていなかったり、時期尚早だったりすると、そのかかる時間が長引きます。問題はそれを受け止める僕自身の側の問題です。その判断脳(判断の基準値を決める脳)を造っていくのが魔術等の神秘行なのではないだろうか、と思っています。
さらに、自分が全く求めていなくても急にわが身に降りかかることがあります。そしてそれは表面的には災害のような顔をしていることもあるのですが、あとになってそれが自分にとって有意義な事であったといった展開になることが多いです。
これは僕だけではなく、すべての人がもっている能力だと思います。しかし大体の人は不幸なことが起きるとつぶれてしまいます。当たり前と言えば当たり前ですが。すべては外部からやってくると勘違いしているからだと思います。
どれは一見災いだと思うのですが、結局それは自分にとって何かしら必要な事だったということが、あとになって判ります。「災い転じて福となる」ではなくて、そもそも災いそのものが福なのです。親分の「福」の子分が「災い」とでも言いましょうか、「災い」がないと「福」もあり得ないとでも言いましょうか・・・・。
会社訪問する時も受付を通して、待合い室でしばらく時間をすごし、それから担当者や社長と面会します。最初から親分には会えないのです。
△△という考え方の癖をつけていると、〇〇という結果が現実生活に現れる。といったような法則を自分自身で見つけていくと、豊かな人生を過ごせると思いますよ。
KOSEI
強力念力魔術・LUCIFERIAN MAGICK として復活
僕は今から5年ほど前「八喜会」という団体で、「強力念力魔術」という名前をつけて占いと祈祷のサービスをしていましたが、しばらく休止していました。しかしなぜか最近ゆえあり復活しました。名称を「LUCIFERIAN MAGICK 」としました。僕は「LUCIFERIAN MAGICK 」の研究歴は長いのですが、最近再チェックを入れました。ルシファー信仰は非主流派ですが、今後人類を導いていくのは、このような非主流な存在ではないかというような気がします。
祝復活! NEW強力念力魔術
魔術団体HAKKIIというウェブサイトを作成しました。ご覧になってください。イニシャル版ようやく完成です。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
このサイトはLUCIFERIAN MAGICK(ルシフェリアン・マジック)の研究サイトです。
KOSEI
八喜会★強力念力魔術復活003
八喜会★強力念力魔術復活003
■なぜ魔術は効果を出すことが出来るのか?
依頼者の方がある一定の決まりごとを守らなければいけない、これは大事なことです。では依頼者側がきちんと言われた通りの心構えを遵守した場合、では魔術はどのようなメカニズムで動き始めるか?です。
それは「自然霊を使役することにより、自然霊が目的達成のために仕事をする」という動きになります。自然霊は人間以上の力を持っているためです。魔術師は難しい仕事を下請けに出していると考えればよいでしょう。
魔術が効果を出すにはいくつかの理由があります。そして、これはそのうちのひとつです。人間が何か偉業(常人が成し遂げるよりも際立った結果)を成し遂げようとした場合、普通の努力だけでは成し遂げることはできません。ではどのような手段に依れば成し遂げることが出来るのでしょうか?
そもそも、この「自然霊」とは一体何者なのでしょう?それは「目に見えない世界に住んでいる存在」のことです。我々が住んでいるこの世界には「意識だけで肉体を持たない存在」がいるようです。そのような存在は第4次元以上の領域に住んでいますから(第7次元といわれています)、この3次元物質世界に住んでいる我々には認識できません。しかし我々の3次元世界にオーバーラップして存在しているようです。
今の我々が、いくら「そんなことはありえない」といっても、我々がこの7次元の領域を感じ取れないだけなのかもしれません。なぜならば人間が感じ取ることが出来る振動数・周波数は全域のうちのごく狭い一部だけで、じつは人間が感じ取ることができない周波数域のほうが大きいのです。自分の感覚でキャッチできないからと言って「そんなことはありえない!」と言うのではなくて、もう少し謙虚になって考えてみるべきでしょう。
人間が感じ取ることができない世界があることは確かです。肉体を持たないと言いましたが、厳密に言うと自然霊たちは思うように好きな形を取れるようです。結果、自然霊(精霊)とは人間とは違う進化をしてきた生物と見て構わないと思います。ただ知性や理性が人間よりも劣るようです。
「自然霊とは精霊のことで、第7次元(あるいはアストラル界?)に存在している。」この知識はこの世界のことを勉強している人には当たり前のことですが、普通の人にはそれほど知られていません。認知度が低いためか、誤解を受けやすいですね。
この知識は神智学やオカルト学問を勉強した人にとってはごく普通の知識といいましたが、神智学や神秘学を勉強した人でも知識としては持っていても、活用している人は少ないものです。僕は魔術師として何回も儀式魔術の経験を積み、現実の動きをトレースすることにより体で覚えました。
自然霊(精霊)とは本来、否定的想念(悪感情や落ち込み等々・・・)に対するための手段として、神により造られたものです。しかし実際は人間のマイナス否定的想念をプラス想念に変えていく事ができるのは人間だけであって、精霊にはできないことなのです。精霊はその人間を助けるために第7次元という世界に存在しています。
イエス・キリストは人々から悪霊を追い出した時に4柱の天使を呼び込んだと言われています(ムジロール、トトリシ、スリッジ、ケンゴータ)、そしてイエスは天使たちに「こっちに来て悪霊を縛れ」と言われました。またイエスは4つの偉大なる門を置いてその4人の天使に、その門の守護をさせました。
もし魔術師が悪霊を他人から追い出して縛らなかったら、自然霊たちはこの世界をさまよい続けるでしょう。なかには、この4つの門を開いて自然霊の力を呼び出すことを学んだ悪い人間がいました。この悪い人間たちは、自然霊に自分たちの目的を印象づけて他の人のところへ送り込んだ(自然霊はどんな形でも取ることができる)のです。つまりこの人間たちは自然霊を悪用したわけです。俗に言う「黒魔術師」です。
古代バビロニアのソロモン王は「神の大神殿」を建てる時に、自然霊の力を利用したといわれています。ソロモン王は用が済んだあと「ソロモンのシール」を用いて自然霊を監禁したのです。このような、自然霊を呼び出して使役する方法が書かれているのが、「ソロモンの鍵」という古代の魔術書(グリモアール)です。
ゆえに、(正しい方法を学んだ)魔術師はその自然霊の力を使って望みごとを実現させることができるのです。つまり第7次元にいる自然霊を呼び出して自分の目的のために使役することが出来るのです。これが魔術が有効な最大の理由です。
しかし、このソロモンの時代の後に他の人々も、この知識を得て自然霊をこの世界に呼び出した人も何人もいたようです。しかし彼等は自然霊を元の場所に帰すことをしないで、この世界に放逐したともいわれています。したがって、多くの自然霊たちがこの物質界に解き放たれたまま、今日に至っている。ということも確かです。
多くの魔術師が実行しているのが、このソロモン王が呼び出した精霊を呼び出すやりかたです。これらは正統魔術団体の伝統的な説明によると、霊的に人間よりも低い存在を呼び出すときには「喚起」であり、人間よりも高位の存在を呼び出す時は「召喚」といった区別をしていますが、ここではシンプルに理解しやすく「自然霊(精霊)」と呼びます。
■ここで問題のもう一つの側面「なぜ魔術師が施術しても効果がない場合があるのか?」を考えます。つまり依頼者の方が何人かの魔術師の方に依頼してもいまだに願い事は叶っていない場合、その原因はどこにあるのか?ということです。
もしも魔術師が正しい、魔術師に合った方法で術をかけていれば効果はあるはずです。とはいっても依頼人側の問題もあるので、100%は難しいと思います。
それでも効果が出ない場合は、魔術師本人の実力不足と言うしかありません。とはいえ、例えばさきほどの魔術書「ソロモンの鍵」の指南どおりに行ったとしても、必ずしも期待通りの結果が出るかどうかは何とも言えません。タイミングやある種のコツみたいなものもありますから、クルマの運転や自転車を乗りこなすのと同じで魔術師が真摯に経験を積むしかありません。
もしも魔術師の方にある程度の実力があり、依頼者の方が正しい心構えを持っていれば、驚くべき効果が現れるはずです。
注意すべきは、魔術師が魔術書に書いてある技法だけをなぞっているのであれば、効果が現れるのは絶望的です。実際のトレーニングは、哲学的な要素と融合することによって活性化されるのです。
■魔術と気功法:僕は魔術の練習と並行して、だいぶ長い間中国の気功法の修練も研鑽を積んできました。気功法というのは「気を感じて(気をとらえて)」その後「気を動かす」といった訓練です。この延長線上に魔術があります。
気をとらえることが出来る人は、自然霊(精霊)を捕まえて魔術師の意志通りに動かすことが出来ます。なぜならば自然霊(精霊)」と「気」は、ある側面を見ると非常に似通っているからです。何が同じということは文章では表現しようがありません。
一般の魔術師は残念ながら「気を操る」ところまでは到達していないので、何か欠点があるとしたらそこら辺かも知れませんね。
KOSEI
八喜会★強力念力魔術復活その2
八喜会★強力念力魔術復活その2
前回のブログにも書きましたが、僕は以前『強力念力魔術』という魔術により、本格的に救済事業を展開していました。
そして今回その『強力念力魔術』を復活させます。そこで『強力念力魔術』というものについて、ちょっと説明しておきます。
『念力魔術』という術があるわけではありません。一般的に行われている祈祷と比べると強力で効果の高い修法をいくつかまとめたものに対しての総称が『念力魔術』です。
『念力魔術』の中に含まれるのは次の修法です。
1 ) ゲーティア
2 ) 荼枳尼天敬愛法
3 ) 大聖毘那夜迦四種成就及十八道神変福徳自在大法
(治罰經含まず)
4 ) 烏枢沙摩明王法
『念力魔術』というと、念力をかけて願いを成就させる・・・といったイメージがあります。しかし
近代の魔術師が口を揃えて言っている魔術の定義は「自分に変革を起こすことによって周囲の環境に変化を起こすワザ」です。
こちらが本道なのです。まず自分自身に変革を起こすことがなんと言っても大事です。しかし僕の場合補助的に外側からの力で援護射撃を行うわけです。なぜならば自分自身に変革を起こすというのは、「言うは易く行うは難し」であり、挫折する人がとても多いのです。自分の修練をしているうちに、大きな変化は中々目に見えてこないため、嫌になって、また目標が見えなくなって止めてしまう人が多いのです。
そのため、外部から依頼者の方に対して精霊召喚/喚起によって呼び起こした魔神、悪魔、明王等の不可視の存在の力で揺さぶりをかけるのです。
自分自身に変革を起こす部分は僕が開発した『人間改革プログラム』というカリキュラムで行います。
そしてそれを補佐するために、不可視の霊的な存在を依頼者の方へ差し向けます。「復縁依頼なので相手に向かって術をかけるのでは?」と多くの依頼者の方がそう思います。しかし先程もお話したように、「自分自身に変革を起こすこと」が中心なので、それを促進させるのが主目的だからです。
依頼者の方の内部波動に変化が起きれば依頼者の方の周囲の環境にもかならず変化が起きてきます。
つまり、
念力==> 「念」とは意識です。「念力」は意識の力です。意識の力で精霊を召喚/喚起し、精霊を使役し、精霊のもつ超自然的なパワーで人間改革プログラムの効果を確実なものにする。また精霊が直接復縁に作用を及ぼす場合もある。
魔術==> 「人間改革プログラム」により、魔術の本道である人間の質を上げていく。
という括りになります。
この『人間改革プログラム』ですが、ここ数年間祈祷依頼をお引き受けしていなかった間に少し内容に修正を加えました。
人間改革プログラムでは、呼吸法を重要視しています。呼吸法に始まり呼吸法に終わると言っても過言ではありません。また瞑想と視覚化もカリキュラムに入っていますが、じつは瞑想と視覚化は一人で進めるには難しい部分がたくさんあります。その欠点を補うために次の二点を追加しました。
依頼者の方の波動を変化させる場合、外部から波動を与えるのも一つの方法です。外部からと言っても、具体的に言うと、依頼者の方がある波動(マントラ)を自分の中で振動させるというものです。またその波動は「自分の波動が柔らかくなる」ものなので、関係が疎遠になっている異性からでも波動をキャッチして近づいてくる可能性があるのです。またマントラを唱えることにより「気」が下へ落ちていき気持ちが落ち着きます。それによって瞑想や視覚化もうまく行えるようになります。
このマントラは別に声に出して唱えてもいいのですが、声に出さなくても効果はあります。数多いマントラの中から僕が依頼者の方にフィットしたマントラを提供します。
護符
魔術師の中には、オースティン・オスマン・スペアのような歴史に名を残す『護符魔術』を駆使する魔術師がいました。スペアは大変に力を持った護符を制作し多くの実績を残しました。その護符には大きな力が吹き込まれていて、護符が独立して動き始めその持ち主の人生を変えていってしまったのです。これも僕が力を込めて作り込んだ護符を郵送でお送りします。
本来僕は、「依頼者の方のエネルギーを上昇させて、そこへ補完的に不可視のエネルギーを注入する」という方法で進めてきたのですが、現代人は忙しいためでしょうか、日常に埋没してしまって、ついつい自分の改革どころではなくなってしまうのです。無理もないと思います。
このように八喜会の強力念力魔術のシステムを変えることにより、一人でも多くの方が恩恵をうけることができますように・・・・・。
今後もこのブログ上で『新強力念力魔術』の内容をアップしていきます。
KOSEI (柳真聖)