KOSEIのブログ

自分の可能性をどこまでも

自分の人生を変えていく術 その1

前回書いた「不思議な能力 」ともつながる内容です:

 

僕は別の魔術サイトで「魔術」の具体的な方法についていくつか書きました。

では人はなぜ魔術に惹かれるのでしょうか?それは自分の想いを現実世界で形にしたいからです。

最近妙なことに気づきました。それはどういうことかというと・・・。

魔術代行を引き受けていた時(現在お引き受けはしていません)、依頼に見えた方のお願い事が現実になるようにと、お祈りをするのですが(主に儀式魔術を用います)、不思議なことに、同時に僕の生活にも変化が起きてくるのです。最初のうちは偶々だろうと思っていましたが、決してそうではありません。それも良い方向に変化していき、往々にして物事が順調に流れ始めるのです。

 

なぜだろうか?いくら考えても判りません。

この話は、このブログでも以前書いたと思うのですが、僕は以前中国大陸で会社を経営していました。そのときに会社の目に見えない流れをアドバイスしてもらおうと思い中国道教の道士さん(僧侶)と、非常勤顧問という形で契約を結んだのです。

ある日、僕は個人的にその人に自分の前世を観てもらいました。彼がいうには僕は前世で天界にいて神官をやっていた、とのこと。以前密教門に入っていた時に阿闍梨様に自分の適職を尋ねたところ「宗教家」という霊示を戴いたことがあるので、その中国道士のかたの言葉を聞いた時には・・やっぱり・・、と感じたことを覚えています。

天界というのは一種の象徴的な表現であり、普通の言葉に置き換えるなら、「目に見えない霊的な世界の探究をし、それにより色々な方の相談に乗る(僧侶の仕事)」ということです。まあ宗教家の仕事ですね。魔術は宗教とは違いますが、やることは同じです。まさに適職です。

そういうことなので、現世で説明ができない事がある場合は、前世という考え方に立つと意外と答えが見つかるものです。前世からのものを引きずってこの世に生まれてきているわけですから、当然と言えば当然ですね。

 

そこで僕は先ほどの疑問を「前世からの流れ」に則って考えてみました。なぜ自分は魔術が効きやすいのか?という疑問です。その答えが出れば他の人とも共有できますから。

前世と言っても現世の流れもその前世の流れに乗っているはずです。考えてみれば僕の生れ落ちた環境はクリスチャンの家で親戚はほとんど信仰者です。僕が出産した時は聖歌とともに生まれたそうです。そして、教会へは毎週お祈りに行き、入った学校はミッション・スクールで、自分の周囲は神様だらけだったわけです。

そして自分の経歴を顧みると、キリスト教に限界を感じ、密教道教の訓練を行ってきたので、長い間の訓練により、僕の「神オーラ」は増強されたと思います。

 

さて魔術と「悪魔召喚」を研究して分かったことは、術者の願いを叶えるために動いてくれる霊的な存在は低次元の霊体です。そしてその霊体を動かす時の一番効率の良い方法は「私は神の代理である(もしくは神そのものである)」と言って悪魔を「脅す」わけですね。

しかし僕は長い間宗教の別は関係なく、「神オーラ」を浴び続けて来たために、あえて脅さなくてもその波動で魔物が反応するはずです。

それが、自分のために行った魔術でもないのに僕の生活に変化が現れる理由ではないか?というのが現段階での僕の結論です。

 

もっとも、僕以外にもスピリチュアルな環境に生れ落ちた人は沢山いますけど、すべての人が天界出身ではないと思いますし、またそういう人は僕と同じように「魔術の効きが良い」わけではないでしょう。その他のプラスアルファーが重要なファクターにもよると思います。

 そして、肝心の祈祷(魔術)を依頼した方への効果は、というと、それはその方の前世を含めた過去によりますから、結果は様々なのです。ある方には効果が速く顕著に現れるが別の人にはそこまで速度も効果の強さも大きくない、といった違いとなってくるのです。様々な要素がその人の魔術に対しての敏感性を決定します。

 効果のあらわれが遅い人や、効果が出ない人に、まさかキリスト教や仏教の宗教を勧誘するわけにもいかず、困っていました。そもそも僕自身は宗教団体は嫌いです。

なぜかというと、僕は宗教の独断的な態度が嫌いなのです。僕自身はキリスト教日本聖公会の信徒ですが、造反した理由はそこです。現在神との接点は別のところでおこなっています。

 

それは何かと言うと「神智学」系のトレーニング・システムです。キリスト教密教を一つにしたようなもので(それが魔術なのですが)す。そもそも神とは形もないものなので、それをどのようにして自分のものにしていくか、ということはまず普通のやり方では成功しません。魔術と言う方法もその選択肢のひとつですが、残念ながらすべての人に向いているとは言えません。そこで僕は神に近づく方法のひとつとして「神智学」というものを提案します。

 

さて僕は、魔術サイトにも書いたのですが、米国の宗教である「Brotherhood of The White Temple」の創始者ドーリル博士の秘伝を学んでいます。秘伝と言うのは考え方と技法です。

 

以下はデータです。

Dr. Muriel. Doreal (本名:Mr. Claud. Dodgin)

Brotherhood of The White Temple

https://brotherhoodofthewhitetemple.com

 

ドーリル博士の説かれた宇宙真理(ニューエイジ系の神智学と言われることもあります)の普及を目的とした「白朋」という宗教団体が日本にあります。

http://hakuho.org

 

僕はこの団体の「白朋誌」というものを定期購読しています。これから何回か白朋誌の内容の抜粋をご紹介していきます。考え方を変えると不思議なことに人生が変わっていきます。ドーリル博士の技法(呼吸法や瞑想法)もありますが、自分自身の視点をまず変えていくことをお薦めします。

興味を持った方は上記のウェブサイトを訪問し白朋誌を申し込んでください。購読料は1年間3,000円です。

 

ところで非常にまぎわらしいのですが、

「The Great White Brotherhood」という団体があります。

これも僕の魔術サイトで紹介していますが、ドーリル博士の 

「Brotherhood of The White Temple」とは別物です。

 

では・・・・・開始します

 

Dr. M. Doreal 白朋誌NO433より

この内容は書籍として発行されていないものです。

ちょっと長いので2部に分けます。今回は433-1

 433号-1

 

神との個人的同調

M・ドーリル博士 原述

 

多分、次の言葉ほど繰り返して言われるものはないだろう。

もし、人が聖なる法則(聖法則)と自分自身とを調和する事を学んだら、その人は自己の物的人生の全ての物事を秩序化し、支配し得る

しかし、この言葉は神秘形而上学の仲間の間では、全く普遍のものである。だが、自分自身と聖法則とを調和化する為の明白で簡単な指示を与えようとする者が、極めて少ない事を我々は見出すのである。

如何なる者も聖法則を破ることができないと言われている。

その人は、聖法則に対して自分自身を破るだけである。

だから、私は、道にある全ての学徒が、この不変の法則を、もはや自分自身で破らないために、聖法則と自分自身を如何に調和するかを真剣に考えるべきだと思うのである。

東洋では人生の輪は、また法則の輪であり、人が人生の輪から解き放たれる迄は、その人生の輪によって縛られるのだと教えられるのである。

もし、我々がこの聖法則と絶対調和で行動し、考え、生きることを学んだら、我々の人生には如何なる種類の不調和・ネガティブの現れもなくなるのである。

私は、我々が人生の事に対して取らねばならない物的態度・心的態度・霊的態度を簡潔に明快に正確に述べようと思う。

もし、我々が聖法則との調和を得る事ができたら、人類の大多数に影響を与えている束縛を取り除くことができるのである。

東洋の私のグル(師)達の一人の言葉を皆さんに話そう。

と言うのは、これ程ハッキリした言葉を聞いた事がないからである。

それは『同調への探究者は、愛に始まって愛に終わる。』である。

完全なる聖なる愛の一瞬が我々に永遠の自由をもたらすのである。

それは何時間でもなく、何日間でもなく、何週間でもなく、単なる一瞬なのである。

知識と愛とは究極的にひとつであり、同じものである。

我々は知識と知恵を求めるように言われているが、しかし、単に知識を求めよというだけでは不十分である。

我々は、どこで知識を求めるのであろうか。

本の中でだろうか。

本の中には、知識はない。

智慧もそうである。

書物は知識を単に集めただけの物であり、知識と智慧とへの人間の探究の記録が書かれてあるだけである。

唯一の永遠で無限で変化も転回もしない知識・智慧というものがある。

それは、聖なる知識と聖なる智慧を、我々自身の意識の中で創造することによって、見出せるのである。

それは、聖なる愛の意識の一瞬においてさえもである。

『聖なる愛を創造せよ』ということは、単なる「命令」以上により多くの説明を要するということは、私も知っている。

霊の光輝が、あなたに降りる聖なる愛の瞬間を、あなたにもたらす意識を発達させるために、あなたがなすべきことを示そう。

それは、聖なる霊(聖霊)・真理の霊は、それを求める者の額に宿るということである。

そのグルは、絶えず『私について来て、愛を以って私を拝む者達に、彼らが私の処へ来ることによって、彼らの意志に指示を与える』と言った。

そのグルが「私」と言うのは、自分自身のことを言っているのではなく、「神」のことを言っているのである。

「神」には多くの名称があり「神」に適用される用語は沢山ある。

「神」との個人的同調を求める者は、まず最初に自己の理想状態を創造せねばならない。

それから、それを自己の意識に完全に持ち続けなければならない。

そうすることによって、それに向かって揺れることなく進むであろう。

と言うのは、目標としての理想を創り出すまでは、それを創り出さない限り、我々は無目的に人生を漂流し、我々の処を過ぎ去る流れの中であちらこちらへと流転するだろうからである。我々は自己の運命を選ぶことさえできないから、自己の運命の主人ではない。我々が進んで行く旅の道を指示できないから、自己の魂の船長ではない。だから「神」との個人的同調を求める人々への最初の指示は『あなたの心の中に、あなたがあらわそうと欲する最高の理想を創造せよ』である。

そして『その理想を揺れることなく諸状況・あなたの周りの物事によっても何らの影響も受けることなく保持しなさい』ということである。

人が、自己の理想を設定した時、その人は、その人は、物的なことだろうと心的なことだろうと霊的なことだろうと、何らかの欠乏を言ってはならず、思ってもいけない。というのは、何らかの欠乏を自己の心・意識に入り込ませることが、我々の理想を乱すからである。

また、霊の中には如何なる欠乏も存在しないからである。

そこには、あらゆる豊かさがある。

そこには普遍の善があり、調和以外のものは存在しないからである。

かくて、我々は『聖』の性質に反する如何なる態度をも自己の意識に保持することを斥けなければならない。

と言うのは、もし我々が反対の想念を持ち、それを表したら、我々は自己の人生にそれを実現するからである。

それは目標への確信と聖現前の普遍性の欠如であり、それが自己の望むものの実現を妨げるのである。

それは我々が、自己の内に不均衡を保っているのである。

我々の人生のあらゆる想念、行為の中で我々は、自己の各想念、各行為の中で形成してきた理想を表現すべく求めなければならないのである。

あなたが話す時は、あなたが形成した理想に反することを話してはならない。あなたが考える時は、あなたが形成してきた理想に反する考えをしてはいけない。

かくてあなたは、あなたの人生にやって来る反映によってより強く強固な理想、想念を形成するだろう。

さて人生における或る特定の事と、それらの事に対してとらねばならない態度とについて学ぼう。

最初の事は、それについて多くの疑問が出されている事だが [ 義務 ] と言う事である。

グルは次の様に言う。

『やって来た義務はどの様なものだろうと受け入れ、全力でそれを成し遂げよ。しかし、あなたの最高の義務は、神へのものであることをいつも覚えていなさい』

個人の霊への義務を越えるような義務はないのである。

  • あなたの持つ最初の義務は、あなたが自分自身の内に創り上げた理想と目標とに真実であるということである。

と言うのは、もし、あなたが自己の理想に偽りであり、あなたの求めている目標に偽りであると、あなたの人生にネガティブと不調和と偽りとを顕現することは確実だからである。

 マスター(聖師)が、『人よ、汝自身に真実であれ』と言う時、これは多分あらゆる神秘学の与えるものの中での最高の真理であろう。

真実であると言う事は、我々の肉体の物的なものに真実であると言う事ではなく、我々が自己の内に形成している霊的聖的な理想に真実であると言う事である。

と言うのは、神は最初であり最後であり、アルファとオメガであり、始まりと終わりとであるからである。

神の聖なる特性を分け持っている我々の内性は、我々が自己の注意をそれに向ける度合いに応じて顕現していると言う事は真実である。

ほとんどの人々は、最初には完全な理想を形成する」ことができない事はもっともな事である。

しかし我々が形成し得る理想に従ってより完全に生きる事によって、より大なる理想を成長させ創造し得るのである。

この世にある人は、物事を征服してマスターと成った聖師と同じ理想(理念)を持つ事ができない事は真実である。しかし、彼は大衆の一人である時に、まず自己の理念を創造し、その理念に真実であり、聖のより大なる理念と、より大なる意識に向かって成長し拡大し得るのである。

彼がそのようにする事によって、その理念がより大となり、より完全となるのである。

聖なる同調をもたらさんと求めている者は、理想と目的とに一体となっている人々の中に友を求めるべきなのである。

エスは、「私の働きをなす者が、我が父であり、我が母であり、我が兄弟姉妹である」と言われたではないか。もし我々が自分で高い理念を持っていても、その理念に反する人々と接し劣化させたら、それは自ら自己の理念を低下させること事なのである。

そしてそれは、周りの不調和によって満たされ、破壊することなのである。

 

だから、我々は友を、選ばねばならないのである。

我々は大衆の一人として高級界と高級意識状態にと高揚する意思もなく、人生の輪に縛られ続けていくのか。

それとも、イエスが言われたように、まず天の王国を求める者になるのかである。

もし、我々が神の国を見出さんとしているのなら、まず天の国を求めねばならないのである。

  • この世において、我々が注意せねばならない他の特性は、[ 寛容 ]である。意識には多くの場合、程度と言うものがある。

 我々が自己の理想を形成しても、隣人達の理念・理想をさげすんではならない。

 というのは、彼らはあなたと完全に意見が一致しないからである。

 異なる意識の人々が、それぞれ自身の理想を形成するのであり、それが或る意識の度合いから、次の度合いへと進む毎に成長して、常により高い意識へと進むのである。

 他人の見解・信念が自分自身のものと絶対的に反対であっても、それらに対する不寛容は、道における進歩の印ではない。

 むしろ、退歩の印、後戻りの印である。中でもとりわけ、聖なる霊のかすかな光を見始めた道にある者は、全ての人々が道にあって、一部の者は或る道を見、他の者が他の道を見るのだと悟らねばならないという事なのである。だから、我々と神との個人的同調をもたらす霊的態度を保持しようとするならば、自己の人生における全ての行為と想念の中であらゆる方法で寛容を表さねばならないのである。

しかし、これが我々の理念に反するものであったら、我々がその中に入っていって自己の寛容を示さねばならないと言う事ではない。

これは、義務で説明できる。最初の義務は神へのものである。

だから、誰かが悪い事をしていて、我々自身の理想・理解・意識から見て明らかに間違っていると思えても、多分、その当事者達の理想・理解・意識では間違っていないのだろうと言う事を覚えておきなさい。

多分、彼らはそれ以上のよいものを知らないのだろう。多分、彼らの持っている意識が、一般の道徳綱領にまで成長していないのだろう。

非難してはいけない。

エスが次の様に言われた事を覚えておきなさい。

『私は誰も裁かない。天にいます父のみが裁かれるのである。もし、私が裁けば私の裁きは正しい』

しかし、それでもイエスは、彼自身の本性の中に聖の意識と力を持っておられたにもかかわらず、裁かれなかったのである。

法則が裁くのである。

法則があなたの人生のあらゆる瞬間を裁いているのである。

あなたの態度、あなたの諸特性、あなたの表現、想念などの全ては、あなたの人生の一日一日の瞬間における経験を形成するのである。

  • 神との個人的同調を求める者が、自己の本性の中に増加すべき別の特性は、[非個人性] である。

 神は、個人的(人格的)な神ではない。神は神の性質の故に、非個人的である。神は他の人々を越えて一人の人だけを偏愛する事はないのである。

 もし、神が偏愛するとすれば、唯一の聖法則がなくなる事になろう。

そこには聖正義がない事になり、そのような神がいる処では、調和状態が破られてしまう事となろう。

人々は神が自分を偏愛する事を望んで、神を選ぶ。

しかし、そうではないのである。

神が法則を創造し、人間がその法則と調和して生きるのであり、そのようにして初めて自己の理想の人生を、経験するのである。

或いは、法則と不調和に生きて、聖法則と調和して生きる者にやって来る孝徳を自分から取り除くかなのである。

だから、人はあらゆるものに対して非個人的態度を取らねばならないのである。

 

このようにして初めて自分の周りの人生の諸条件をハッキリと見る事ができるのである。

 

私の処へ、病気を治してもらいに誰かが来た時、私が彼らの持って来た病気の状態に自分自身を入れたら、その病気の個人的性質の故に、私は個人的となってしまう。

そして、非個人的法則が顕現する治療の聖なる力が、私を通して解放される事が不可能となる事であろう。

これは、人を見たり感じたりしてはいけないという意味ではなく、他人の状況だろうと自分の状況だろうと、それらをどれも、同様に非個人的な観点から見るべきだと言うことである。

我々は、自分自身の理想の部分でない諸状況、環境、諸経験から自分自身を引き離さねばならない。

私が、この人生でいろんな経験をしたことは、皆さんも知っていよう。

私は、経験を通じて次のことを見出した。それは、私の周りに群がって来て起こるどのような事でも、それらが私に影響を及ぼさないとの意識を持っている限り、私がそれらを非個人的な分離の意識で見ている限り、それらは消えてしまうか、私の抱いている理念と調和したものに変換されるかするのである。

もし、私がそれらの物的なものの中へ入ったら、皆さんが縛られているように私も縛られるのである。

別のことは若干物質的な事である。

即ち、我々が物質世界でなしている働き、仕事についてである。

その仕事がどんな仕事であろうと、銀行員だろうと靴磨きだろうと大工だろうと溝堀だろうと牧師だろうと主婦だろうと、我々は自己の物的なことに対しては、我々の霊的な事と同様に聖なる非個人的愛を持っていなければならない。

そうすると、我々の人生の物的な事柄を霊的理想の反映とできるのである。皆さんが知っているように、我々はあまりにも物に接近しすぎる。

我々は遠くからは見る事ができないのである。

我々のすべては、なんらかの仕事に従事している。

その仕事を個人的なものとして見ず、その仕事の中に理想を保持したら、我々の人生のあらゆる物的な事柄は、我々のとる態度によって色付けられ始める。

そして、我々の霊的理想を物質界において実現させ得るような物的状況を現し始めるのである。

  

433号-2 へ続く

 

 Kosei