維新運動後の国への無関心
維新運動後の国への無関心
自分が住んでいる国をどうしたら自分の生活が快適になって、自分の才能を発揮できて、理想を叶えることが出来る世界が来るだろうと、考える人は以前に比べて徐々に少なくなっているのではないだろうか?政治や社会への無関心はどうしてやってきたのだろう?
風化しつつある事件だが忘れてはいけない事件
1960年10月12日午後、日比谷公会堂。総選挙前の3党首演説会で、浅沼稲次郎社会党委員長が右翼の凶刃に倒れた。被疑者である山口一矢(やまぐちおとや)の供述調書「山口一矢烈士供述調書」という本が今僕の手元にあります。
その本の冒頭には「浅沼委員長刺殺」というタイトルで有名な一枚の写真が掲載されており(毎日新聞記事より)、その下にはこのような記事文が「事件翌月の総選挙の投票率は73.51%、あれから35年余、初めて小選挙区比例代表並立制で実施した昨年10月の総選挙は戦後最低だった前回の67.26%をさらに下回る59.65%だった。政治に選挙に熱かったあのころと今と・・・・1枚の写真が、その格差を思わせる。」
この本は山口一矢(やまぐちおとや)烈士の本籍住所職業が明記してあり、山口一矢烈士の経歴から殺人に至るまでの動機から、当日の行動に何から何までが克明に記されています。
供述調書の冒頭部分のみ職業部分と最初の数行のみ転記します。
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本籍 ●●●●●●
住所 ●●●●●●
職業 大東文化大学 中国文化科一年生
全アジア反共青年連盟員
山口一矢(十七歳)
右の者に対する殺人被疑事件につき、昭和三十五年十一月一日公安部公安第二課に於いて本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意志に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたる処、被疑者は任意、左の通り供述した。
私は十月十二日、日比谷公会堂で立会演説中、社会党中央執行委員長、浅沼稲次郎を国賊として日本刀で刺殺いたしましたが、浅沼を倒すに至った理由についてお尋ねがありましたので、私の幼少の時代からの生い立ち、思想の推移、動機等について申し上げます。
~以下省略します。
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要点としては、山口一矢氏は「自分の国を売るような行動をとった人間は倒すしかない、そのためには徹底してやらなければだめだと思った。」と供述しています。これだけの行動に移せる人間は今や日本には一人もいないと思います。思想やその行動に間違っていた部分があったにせよ、何かしらの行動に移す必要があるのです。但し敵対勢力の中心人物を倒し(殺し)たとしても何も状況は変わらない。それどころか一層不利になる。
日本には昔から「似非右翼」という存在がいたようですが、残念ながら山口一矢氏の純粋な行動は、これらの似非右翼を増長させてしまった。これほど残念なことはないです。
ただ、事件の背後関係を調べようとしていた警視庁に、「山口一矢自決」の報が入り、当局は動揺したとありますが、ここで思い出していただきたいのは、オウム事件の麻原彰晃が獄中での様子がおかしかったということです。「薬」を盛られているのではないかともいわれるほど・・・。山口一矢氏の自決も、そう考えれば、全ては闇の中に消えてしまったわけですから、どうもスッキリしないですね。
自決の様子:
東京練馬鑑別所の鰭崎所長が「非常に重要な人物だから警戒は特に厳重に」と須賀、玉井、佐子の三教宣監視のもとにおいた。七時五十五分、須賀教宣が点呼で山口を確認してから八時三十一分までの三十六分間の無監視時間に山口一矢氏はベット反対側の壁にハミガキ粉を水で溶くと、指で絶筆として、「七生報国 天皇陛下万歳」と書きしたためて、シーツをタテ半分、幅三センチに裂き、より合わせて長さ約三メートルの紐にし、一方の端を首に巻き、他の端を高さ約三メートルの天井に付いていた丸い鉄製の電球カバーにひっかけ、ベットに布団を積み上げてその上より飛び下りて自決したものである。
遺詠(筆書のもの)
千早ぶる 神の御世代 とこしえに
仕えまつらん 大和男子は
国の為 たふれし人ぞ あるこそに
今の若人 育ち来たらん
しきしまの 大和男子と生まれなば
進まん道は 一つなりけり
皇紀二千六百二十年十月四日
山口一矢
ただ通りいっぺんの青年が激情に駆られて起こした事件ではないだけに、本当のところをもっと知りたいものですが・・・。
ちなみに上記の「山口一矢烈士供述調書」という本は非常にお勧めなのですが、「学純同総本部」の発行で残念ながら非売品です。ご興味のある方は連絡ください。手コピーでお配りします。
KOSEI